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2013年4月

2013年4月27日 (土)

日本銀行券について


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日本銀行の帳簿の建前をあえて無視した日本銀行券についてのひとつの素朴な見方です。建前は日本銀行にとって借用書ですが資産として見ることもできるように思えます。日本銀行券は国立印刷所で1枚20円程度で印刷されます。この段階ではおもちゃのお金と同じです。国立印刷所から日本銀行に持ち込まれて日本銀行がお金と認識した時点で1枚20円の1万円札は1万円の資産となり、1万円引く印刷経費20円で9980円の純資産増加となる。(付加価値?9980円)1万円札は純資産であり日本銀行の資本のように見えます。

借方(資産) 物理的な1万円札 貸方(資本)発行銀行券1万円

日本銀行の帳簿では発行銀行券は負債となっていますが、素朴に考えると85兆円の発行銀行券は負債ではなく資本に見えます。日本銀行は銀行なので1万円札は貸し出す形で世の中に送り出します。1万円札という資産を市中銀行に貸し出し、市中銀行は日本銀行に対して利息とともに返済する義務を負います。その利息で日本銀行は業務遂行の経費を賄います。政府が紙幣を発行すると政府の資産となり、財政支出で政府が必要とするモノやサービスと交換され世の中に送り出されます。政府紙幣は日本銀行券と違って財政支出で世の中に送り出され徴税で回収されます。

 

私は政府紙幣で子ども手当も発行すべきであると思います。

 

まあ、いろんな人の考えを参考にもしながら、指摘に素朴に考えてみました。


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考古学部に入りました

高校では考古学部に入った。

また、おいおい連絡する。

さて、ツイッターで、なんと、私と外山斎先生との仲良し度が「100%」という記録が出た(笑)。

次がりゆちゃん(28%)で、その次が、これまたなんと、植草一秀先生(27%)と、豪華なフォロワーがそろっている(笑)。

それにしても、一位と二位、三位の差がありすぎるなあww私と外山先生、どんだけ仲いいんだ?とっても光栄なことですけど(笑)。

そして、人気ブログランキングで、再び二位の座を奪還しました!皆さん、ありがとうございます。今度は一位を目指しますので、皆さん、ご支援、ご協力お願いします!


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2013年4月21日 (日)

殺人を容認する極悪人

外山斎先生が、少子化問題について、「人工死産率も高い理由をしっかりと考えて、少子化対策は行うべき」とツイッターで発言した。https://twitter.com/izki_toyama

人工死産とは、過激な言葉を使っておられるが、ようは、堕胎、人工妊娠中絶のことである。私が長い間ツイッターで「堕胎は殺人である」と言い続けてきたが、政治家にもいたのだ。

(運営会社の指摘に基づき削除2014/11/15)

東日本大震災で、被災地出身の方が妊娠すると、少しでも異常が見つかったら、堕胎をさせるように圧力がかかる、という話を聞いたことがある。

実は、このようなことはチェルノブイリの被災地であるベラルージでもあった。「放射能による奇形児誕生は確認されていない」というのは、原発を作りたい学会と政府の建前なのである。ネット上では次々と酷い情報がリークしている。中には未確認情報もあるので注意が必要であるが、そもそも、蔵持達郎のような指定の判断で容易に堕胎ができる現在の『母体保護法』がすでにおかしいのだ。

ところが、これらは一部の例かと思っていたら、なんと、東京にも放射能が飛んできているため、東京で奇形児が生まれたら保健所の方がやっていて、堕胎するように圧力をかける、という話まで聞いている。

東京在住の医学博士・●●●●(⇒運営会社の指摘に基づき削除204/11/15)さん、どうか未来の国民を殺さないでください!

※今回の削除措置は、運営会社から明示的な指摘があったわけではなく、あくまで運営会社からのメールの内容に基づいて私が行った、自主規制です。2014/11/15

2013年4月20日 (土)

兵庫統一市長選で勝つ「売国奴」自民党

首長選(都道府県の市長とか町長を決める選挙)が集中する4月の「ミニ統一地方選挙」で、野党が伸び悩んでいます。

日本維新の会は大阪以外で初めて擁立した公認候補の2人が敗北しました。民主党も再起を狙った前の衆議院議員が敗れました。
兵庫県の伊丹と宝塚のの市長選で維新の会が擁立した候補が敗れたことについて、橋下代表は「これはもう維新の会の実力不足ですよ。実力がそのまま出た選挙結果だと思います」と語りました。
それらの選挙期間中には、維新の会の橋下代表と松井一郎幹事長が2度、応援に駆けつけたのですが、大敗してしまいました。

実は、維新の会は、伊丹や宝塚といった大阪に近い市の市長選で勝って、今年7月の参議院選挙に弾みをつけるという狙いがありました。

しかし、それらの市で大敗してしまい、維新の会の大阪市議員は「普通にやれば勝てると思い込んでいた」と言ったそうです。。。

今、維新の会に広まっているのは今年6月にある東京都議員選挙への危機感です。すでに維新の会はそれにむけて34人を公認していますが、維新の会の東京都支部長は、「維新の会の看板だけで選挙をするのはむずかしい」と発言しました。

橋下代表は参議院選挙に向け、憲法改正や教育委員会制度の見直しなどを前面に押し出すつもりだそうです。

でも、維新の会の議員からは「(自民党も似たようなことを主張していて)自民党とイメージが重なって有権者に違いがわかりにくい」との見方も出ています。

一方、民主党も今月に行われた秋田市長選、秋田県小坂町長選で擁立した候補が落選しました。
民主党幹部は「民主党にはウルトラCがない。アベノミクスにほころびが出れば盛り返せるんですが……」と、安倍政権の失敗に期待しているそうです。

今のところ、安倍政権の内閣の支持率は60%と高いです。自民党の石破幹事長は15日の記者会見で、「民主党より”まし”という期待感が、自民党の実績への評価に変わってきているのではないでしょうか」と自信を見せました。


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あまり、いいことではありませんよね。

自民党はとんでもない売国奴です。

TPP交渉でも、日本の得意な自動車分野では、アメリカが輸入車にかける関税の撤廃時期を最大限遅らせるなど日本側が大幅に譲歩しました。朝日新聞によれば、アメリカは10年以上、日本車に関税を課す可能性があるそうです。

そして、農産物分野では、日本はコメなどを関税撤廃の例外とするつもりですが、今回の日米合意では具体的な「約束」は取り付けられず、本交渉へ持ち越されました。

何でこんな「悪条件」を日本はのんだのか……

それは、今年の7月に日本はTPPの交渉に参加したくて、合意を急いだからです。TPP参加のために高い「入場料」を払わされた形となりました。

しかし、今回の合意で、北朝鮮の核・ミサイル問題や中国の海洋進出を受け、日米同盟を強化し、アジア太平洋地域の安定につながるというメリットは得られたようです。

安倍総理は、今回の合意を受け、「日本の国益はしっかりと守られています。しかし、本番はこれからです」と発言しました。

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誰がこんなのに騙されるんだ!

国益よりも、自由貿易よりも、農協利権を優先した、安倍政権の末路です。


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2013年4月14日 (日)

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人気ブログランキング(政治家志望)で、初週にもかかわらず第二位になりました。

皆さん、応援ありがとうございます。これからもお願いします。

応援していなかった人も、ワンクリックで投票おねがいします。


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選挙制度と地方主権の一体改革案


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私の「選挙制度と地方主権の一体改革」の案について述べたい。

私の主張は、「小選挙区比例代表連立制」と「州評制」の導入である。

「小選挙区比例代表連立制」とは、「小選挙区比例代表連用制」のことではない。「立」と「用」、一文字違えば大きく違う。あまりにも違いすぎる制度である。

現在の選挙制度は「小選挙区比例代表並立制」である。だが、この制度は「チルドレン政治」の元凶であるといわれてきた。

なぜなら、「比例代表」で有権者は候補ではなく、政党に票をいれる、だから、比例単独の議員は知名度も能力も何もない、自らの党に風が吹かなければ、次の選挙では落選してしまう、そういう弱い政治家なのである。これが政治劣化の原因では、と言われてきたのだ。

ヨーロッパでは「完全比例代表制」が導入されてい国があるが、その結果、小政党が乱立する状態となっている。

また、昔のわが国では「中選挙区制」が導入されていたが、この制度では、自民党が社会党のような大政党は、国会で過半数の議席を取るために、一つの選挙区に複数の候補者を擁立していた。

つまり、同じ政党の議員が選挙で敵同士になっていたのである。その結果、政党は有名無実のものとなり、政党内では派閥の力が強くなった。

そして、小沢一郎氏らが離党すると、国会で過半数を得る政党ができなくなり、選挙を経ないまま、数年のうちに「細川政権(日本新党)→羽田政権(新生党)→村山政権(日本社会党)→橋本政権(自由民主党)」と、総理大臣の政党が変わっていった。

だから、中選挙区制や比例代表制は決して理想の制度ではない。

小選挙区より比例代表の比率を大きくする「小選挙区比例代表併用制」や「小選挙区比例代表連用制」にも賛同できない。


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私は、「小選挙区比例代表並立制」を改良した「小選挙区比例代表連立制」を主張する。

具体的にどのような部分が変わるのか、それは「比例復活」の条件である。

まず、全ての候補を重複立候補とし、名簿に順位はつけない。比例代表単独立候補は認めない。全ての候補が小選挙区で一度は戦う。

そして、比例復活ができるのは、小選挙区で①得票数が二位で惜敗率が20%以上②惜敗率が50%以上、の候補に限る。①②の条件にかなう候補がいない場合、比例単独はないから、当然、その政党は比例区で議席をとれない。

また、復活の際は、名簿の順位や惜敗率ではなく、得票数が多い候補を優先的に復活させる。このことにより、小選挙区では有権者数の少ない選挙区ほど一票の重みが大きくなるという一票の格差が存在しているが、比例復活の際には有権者の多い選挙区の候補ほど当選しやすくなるため、結果的に一票の格差が存在しない、唯一の「小選挙区制」となる

そして、議席数であるが、日本は有権者数当たりの議席数が、アメリカについで低い。欧州と比べると飛躍的に少ないのである。であるから、議席数は減らすのではなく、むしろ増やすべきである。

私の案は、
小選挙区――600議席
比例代表――200議席
である。合計、800議席となる。この方が多様な民意が反映され、また、選挙区は小さいほうが一票の格差が小さくなる傾向にある。(もっとも、最終的に一票の格差は存在しなくなるのであるが、小選挙区の時点で一票の格差が小さいほうが望ましいこと、言うまでもない)


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さて、この600選挙区であるが、これをどうのような単位にするか、それは「州評制」と関係してくる。

「州評制」とは、日本を古代の五畿七道に基づいて、10の州と600の評(九州王朝の行政単位)に分ける考えである。

州は、北海州、東山州、東海州、北陸州、畿内州、山陽州、山陰州、南海州、西海州、琉球州、の十個に分ける。

そして、小選挙区と同じ程度の「評」を600個設ける。評と小選挙区は原則同じであるため、都市部ほど小さくなり、地方ほど大きくなる傾向になる。人口は25万人~35万人規模である。

また、州の権限は道州制とさほど変わらないが、評は中核市並みの権限にすることを考えている。

まだ述べ足りないことはあるが、とりあえず、これが私の案の大まかな部分である。


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2013年4月10日 (水)

領土問題に関する偏向報道

わが国では、『放送法』の規定により、マスコミには「政治的中立性」が求められる。

しかし、マスコミが中立な報道をしていない、特に領土問題において、偏向報道を行っている、という指摘がある。

そのような事実があったとしたら問題である。

そこで、今回はマスコミが報じない、領土問題に対する三つの視点を見ていきたい。


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放送法第四条には次の規定がある。

(国内放送等の放送番組の編集等)

第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。 

一  公安及び善良な風俗を害しないこと。 

二  政治的に公平であること。 

三  報道は事実をまげないですること。

四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

そして、番組の編集については、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」がもとめられる。

自民党の大西英雄議員が、衆議院総務委員会に置いて、NHKが孫崎亨氏を出演させたことについて、クレームをつけたという。その理由は、大西氏が孫崎氏のネットやテレビ報道などでの発言を調査した結果、「孫崎亨は『尖閣諸島は中国の領土だ』『竹島は韓国の領土だ』と主張している」というものである。

孫崎氏は外務省の元情報局長であり、その彼がそのような発言をしていたとしたら、確かに問題である。


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だが、実際には孫崎氏はそのような発言をしていない。

自民党議員が「虚偽の調査結果」を理由に、「孫崎を番組から降ろせ」と圧力をかけたのである。

大西議員は、「虚偽の調査」をでっち上げたのだ。

これは名誉棄損で訴えられてもおかしくない行為であるが、国会議員には「議員内での発言に対する免責特権」 がある。これは、仮に国会議員がそのような「大嘘つき」であるとすれば、国民がそんな議員は落選させるであろう、という考えからくるものだ。

しかし、マスコミはそのことを報じなかった。

領土問題に対する偏向報道も問題であるが、今回のケースのような報道も、「議会制民主主義」を形がい化させる恐れがあり、決して許されることではない。

そういえば、生活の党の外山斎議員が国会の場としては初めて「『河野談話』は撤回すべき」と発言した時も、マスコミはそのことを報じなかった。一部地方紙で「民主党と国民の生活が第一の議員から領土問題や『河野談話』に関する質問があった」などと報じられたが、一部の例外を除き、外山斎議員の発言について、右も左も無視、ということをやってのけたのである。そして、2012年の総選挙で外山議員は落選した。

生活の党(当時、日本未来の党)には「小沢以外、活動している政治家がいない」「生活には政策がない」と言われているが、実際には外山議員のような政治家がいても、マスコミが報じないので、どのような活動をしているか、主張をしているか、国民には伝えられないのである。

だから、マスコミの責任は重大なのだ。

マスコミの偏向報道は許されるものではない。


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話を領土問題に戻そう。

NHKは「沖縄県の尖閣諸島」と述べている。また、「中国が領有権を主張している尖閣諸島」とも述べている。

しかし、これは、本当に「できるだけ多くの角度から論点を明らかにする」という報道なのか。

そもそも、尖閣諸島問題で何が争点になっているのか。

決して、中国は「琉球の一部である尖閣諸島を返せ」とは言っていないのである。

従って、ここは、

「政府が沖縄の一部であると主張している尖閣諸島」

「政府が日本の領土であると主張している尖閣諸島」

と報じるべきである。

そのうえで、「中国が何を主張しているのか」についても述べなければならない。

でないと、中国の繰り出す国際的な情報戦に太刀打ちできない。


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中国が領土問題でどのような主張をしているのか。

それは、

「尖閣諸島は琉球ではなく、台湾の一部である」

「その台湾は、中華人民共和国の領土である」

という、ものである。

じつは、中国国民党や台湾独立派も同じ主張をしている。だから、台湾も尖閣諸島の領有権を主張しているのだ。

台湾も、中国も、

「尖閣諸島は琉球ではなく、台湾の一部である」

ということを、「大前提」にして話を進めているのである。それを多くの日本国民は知っているのであろうか?

この問題については、すでに過去のブログ で述べた。

マスコミは、まず第一に「相手の主張を報じる」という行為を怠っている。

そして、お互いの主張をろくに調べもせずに、

「沖縄県の尖閣諸島の領有権を中国が主張している」

と、報道するのである。


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ここで問題になるのは、マスコミが報道しない、「第二の視点」――「『サンフランシスコ平和条約』をどうのように解釈するか」という問題である。

このことについては、すでに述べた。

まず、日本は台湾と千島列島、南樺太を放棄した。第一に問題となるのは、「尖閣諸島は台湾に含まれるのか」「北方領土は千島列島に含まれるのか」ということである。

このことについて、政府は「尖閣諸島は台湾に含まれない」「北方領土は千島列島に含まれない」と主張している。

しかし、この主張は、実は誤りである。

確かに尖閣諸島は台湾に含まれない。中国や台湾の主張は大嘘である。

だが、北方領土についていうと、択捉島と国後島は「千島列島南部」に含まれる。(色丹島と歯舞諸島は含まれない)だから、北方領土問題で「二島返還論」が生まれるのである。

ところが、だ。

ここで第二の問題がある。

「仮に尖閣諸島や北方領土の領有権を日本が放棄していたとして、中国やロシアにその領有権を主張する権利があるのか?」(続く)

친애 되는 일본민족의 조국·한국의 여러분에게

생활의 당(대표:오자와(小澤) 이치로(一郎))의 도야마(外山) 절 음식(채식 요리)의원의 발언 「조선인 종군 위안부가, 과거의 어느쪽의 시점에 있어서도, 존재하지 않았다라고 하는 것은, 분명히 역사적 사실이다. 고우노(河野) 요헤이(洋平)·자민당원 총재는, 미국의 속국인 한국과 친했다. 왜, 노다(野田) 총리는, 증거도 없는데, 그 (종군 위안부의 존재를 인정했다) 고우노(河野) 요헤이(洋平)의 담화를 답습하고 있는 것인가? 이 담화는, 일한 관계의 역사를 뒤틀리게 한 것이며, 철회 해야할 것이다. 」
일본 가죽(혁)령회 (대표·미키(三木) 신타로(愼太郎))의 욕탕구(湯口) 준야(純也) 위원의 발언 「한국의 GDP의 5%은 매춘에 관한 것이다. 요컨대, 한국에 있어서, 매춘은 역사적인 전통이며, 조선인 위안부라고 하는 것은, 모두, 성노예가 아니고, 단순한 매춘부다. 일본의 학생이에요, 한국의 거짓말에 속지 마라! 아득히 고대, 하리마(播磨)를 신라(新羅)가 燒치러 한 사실을 잊지 마라! 종군 위안부 문제는 치한원죄와 같은 성질이 것이다. 치한에 99.99%이 원죄인 것과 같은 이유로, 이것은 원죄다. 」

2013年4月 7日 (日)

【日野智貴の多元王朝論】<第四回>倭の朝鮮進出

⑧高句麗(こうくり)好太王碑の改竄(かいざん)問題
高句麗好太王碑の問題は、日韓文化交流の中で微妙な問題をはらんでいる。なお、この王を以前は好太王と呼んでいたが、最近は広開土王と呼ぶようである。

現在この石碑は鴨緑江(おうりょくこう)北岸の中華人民共和国領にあるが、朝鮮半島から満洲に版土(はんと)を有する高句麗王国を発展させた好太王の事績を讃えて、4世紀末-5世紀始めに建立されたものとされる。

この石碑を世界に紹介したのは、日本陸軍の酒匂景信(さこう-かげのぶ)中尉である。日清戦争の10年前、明治17年 (1884年) のことだった。もちろん、石碑は当時の清国領土内にあった。

酒匂中尉は参謀本部から派遣され、仮想敵国である清(しん)国の内情を探っていた情報将校であるが、この使命が誤解されて、改竄説に大きな影響を与えたと思われる。

碑文には、391 年に「倭が新羅や百済(くだら)を臣下とした上、高句麗に攻め入って来た」と解釈される文言がある。好太王は倭の攻撃を撃破して高句麗の隆盛を築く訳だから、高句麗の立場からすれば極めて誇るべき功績である。

しかしこの前半を認めると、倭が朝鮮半島で大きな勢力を持っていて、新羅や百済を臣下としていた、ということを認めないといけない。

これは、韓国/朝鮮の国民感情からとても受け入れられる内容ではないだろう。そこに、この碑文が改竄されたのだ、という説が出て来る遠因があると思われる。

改竄説は古田武彦氏の「失われた九州王朝」によると、次のようないくつかの変種があるらしい。


まず、酒匂中尉が発見直後に改竄した
この説では、以下を立証しなければならない

酒匂中尉は、この碑文が古代に日本が朝鮮半島を支配していた証拠になり得ると悟った
そして、その証拠が明かになるように、碑文を改竄した

私の考えでは、これは無理である

酒匂中尉は、この碑文を理解し、古代史における重要性を悟らねばならない。酒匂中尉は考古学に興味があったそうだが、明治10年代に上のような知識や意識は持っていたとは考えにくい

酒匂中尉は碑文の拓本を購入している。 つまり、碑の利権を所有している拓工が存在する訳である。拓工を無視して碑文を改竄することは困難である

この地は仮想敵国(清国)の領土である。いかに清国の勢力が衰えたといっても、部隊も率いていない一将校が勝手に改竄できるものではない

10年後の日清戦争のときも、清国は定遠・鎮遠という巨大な戦艦を有し、日本は開戦をためらった。弱小国日本にとっては清国は「眠れる獅子」どころではなかった

碑は実に巨大で、拓本は数十枚の半紙をつなぎ合わせたものである。 酒匂中尉が自分で拓本を作ったとすれば、石碑の存在を知った上で、 これが拓本を作るほど重要なものであること
を察し、大量の紙や墨などをあらかじめ用意していないといけない。もちろん、現地の拓工と交渉した上である。まずあり得ないだろう

酒匂中尉が購入したのは碑文の拓本ではなく、双鈎本といって、拓本を元に別の紙上に筆で書き取ったものである。

したがって、写しとるときに恣意的に書き換えることは可能であるし 実際そのような字もあるらしい。ただ、それをやったのは誰かである。 上のような理由で酒匂中尉ではないだろうから、酒匂中尉の「改竄」ではないだろう

この説の提唱者は真面目(まじめ)な研究から唱えたものらしいが、 信奉者の中には以下のような思い込みを持つものはいないだろうか

酒匂中尉は情報将校、いいかえればスパイである。スパイだから、どんなことでもやる
スパイと情報将校では、与える印象がひどく違う。酒匂中尉をスパイと呼ぶ人は、この印象の違いを意識しているのだろうか

日本が後に朝鮮/韓国を併合するが、その企図はこの頃からあり、将校全員に浸透していた筈だ 清国の統治能力は弱く、日本の情報将校は何でもやり方題だった 酒匂中尉が拓本を持ち帰ってから、参謀本部はその重要性に気付き 要員を送って改竄させた

この説がなりたたないことも、古田武彦氏が論証している

この件について、注意しなければならないことがある

酒匂中尉や、後の研究者が持ち帰った初期の拓本は、原碑文そのままでない。 このことは広く知られている。

拓工が碑に石灰を塗って美麗な文字を彫っているから、研究にあたっては注意しなければならない、という初期の研究者の報告がある

この変更を(拓工ではない)誰が行ったかを証明しなければ、意図的な改竄とは呼べまい。 この証明なしに、酒匂中尉や参謀本部の改竄と呼ぶことはできない

⑨倭は4-5世紀に朝鮮半島北部に影響力を持てたか
日本において信じられている「4-5世紀において倭が朝鮮半島北部に影響力を持っていた」という考えに対し、海上交通が発達していない時代にそれは無理だろうという説があり、このことが改竄説を補強すると考えられるかも知れない。

これに関連して「4-5世紀に、倭が朝鮮半島北部において影響力を持っていたか」についての私見を述べる。


1この「倭」を現在の「日本」と等置するのは妥当でない

2好太王碑自体が現在中華人民共和国領にあることから考えても、高句麗を朝鮮の王国と考えるのも無理があり、満洲から朝鮮半島北部にかけての広い王国である (時代によって版図(はんと)は異なる)

同様に「倭」も朝鮮南部から九州北部の両方を支配していた王国である可能性が高い

朝鮮の正規の史書「三国史記」や「三国遺事」によれば、 高句麗、新羅、百済に対する倭の脅威は非常に大きく、国境で常に紛争を起こしている

このことは、倭が朝鮮南部に根拠を持っていたと考えないと理解できない

この倭が、朝鮮・対島海峡の両側に領土を持っていたとして、日本列島から朝鮮半島に進出したのか、逆に朝鮮半島から日本列島に侵入したのかは興味深い話題であるが、韓国の一部で信じられているらしいが、百済滅亡(663年)後、百済王族が日本に来て天皇(天武天皇?)になった、ということは絶対にあり得ない。

3南北朝時代の中国の史書によると、倭の五王は執拗に南朝皇帝に朝鮮半島の諸王国(新羅・百済・任那(みまな)他)の王位を与えよと要求している

南朝皇帝は、倭王に新羅・任那の王位は認めたが、百済王位は認めない

それも道理で、南朝皇帝は百済王に百済の王位を認めていた

【日野智貴の多元王朝論】<第三回>倭の五王九州説

⑥倭の五王は九州

さて、『三国志』に続く史書、『宋書』には、有名な「倭の五王」が登場する。倭の五王は、応神(第15代)から雄略(第21代)の7人の天皇のうちのいずれかにあたると、従来言われている。

それを列記しよう。

(1)讃

  1. 履中(りちゅう 第17代)説 松下見林・志村[木貞]幹・新井白石・白鳥清・藤間生大・原島礼二
  2. 仁徳(にんとく 第16代)説 星野恒・吉田東伍・菅政友・久米邦武・那珂通世(なか-みちよ)・岩井大彗・池内宏・原勝郎・太田亮・坂本太郎・水野祐
  3. 履中もしくは仁徳説 津田左右吉・井上光貞・上田正昭
  4. 応神(第15代)説 前田直典

(2)珍

  1. 反正(はんぜい 第18代)説 前田直典以外
  2. 仁徳説 前田直典

(3)済

  1. 允恭(いんぎょう 第19代)説 異説なし

(4)興

  1. 安康(第20代)説 水野祐以外
  2. 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)説 水野祐

(5)武

  1. 雄略(第21代)説 異説なし

(水野祐は『梁書(りょうしょ)』の「弥」を(1)と(2)の間に入れこれを履中とする)

この内、前田・水野の両説は異色の説であり、孤立している。したがって、他は(2)~(5)については一定している。(1)の讃だけが各学者の意見が分裂しているのである。

さて、武が雄略に当たると言うのであれば、当然その4代前の讃は履中でなければならぬ。しかし、この比定には、重大な矛盾がある。

晋安帝の時、倭王賛有り梁書倭伝

(晋安帝、義熙九年)是歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず晋書安帝紀

によれば、讃(賛)は東晋の義熙九年(413)に既に朝貢している。宋書に登場する元嘉二年(425)まで、少なくとも足掛け13年は在位していたことになる。

さらに、次の珍は元嘉十五年(438)に貢献し、受号している(宋書文帝紀)。したがって、讃・珍の二代の在位年数の合計は少なくとも26年以上ということになる。

讃は義熙九年(413)以前の数年を加えなければならないだろうし、珍も次の済の貢献年次(443)までの何年かを加えねばならぬ可能性が充分にある。

ところが『日本書紀(やまとのふみ)』によれば、履中(六年)・反正(五年)の在位年数の合計(11年)は、先の最小年数(26年)の半分にも満たない。一般に「書紀」の在位年数は「実数値より多い」のであって、これは矛盾である。

そこで、讃=仁徳説が浮上するのである。だが、ここで新たな矛盾が生じる。

『宋書』では、珍は讃の弟である。一方、仁徳は履中・反正との関係は親子である。

それで両者が激しく論争をするのだが、外から見れば、問題はハッキリしている。どちらも矛盾している。どちらの説も成り立たぬ。

こうして、そもそも、「倭の五王」を「天皇家」に当てる試みは、正しかったのか?という問いに進まねばならないのだ。

さて、倭の五王のなかで、比定すべき天皇がもっとも確実だとされるのが「武」だ。ところが、「武」には奇妙な問題がある。『宋書』の次の『南斉書』『梁書』にも「武」が登場する。

建元元年(479)進めて新たに使持節都督、倭・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・加羅・秦韓六国(りっこく)諸軍事、安東大将軍、倭王武に除し、号して鎮東大将軍と為す南斉書倭国伝

(天覧元年、502)鎮東大将軍倭王武、進めて征東将軍と号せしむ梁書武帝紀

日本書紀に依れば雄略の治世は456-779だから、梁書の「武」は雄略の治世をはるかにオーバーしてしまう。

502年といえば、『日本書紀』なら雄略より4代あとの武烈の治世であり、「武」は雄略-清寧(せいねい)-顕宗(けんそう)-仁賢(にんけん)-武烈の各治世にまたがっている。

このような事実が、「武」と雄略は同一人物でないことをハッキリ示している。(さらに、「稲荷山鉄剣銘文」とも矛盾があるが、後述する)


さて、「倭の五王」問題の根本は名前である。中国風の一字名だ。一般にこのように解説されている。

  1. 倭国側は記紀のように、倭名を表音表記したもので書いた(或は口で述べた)
  2. 中国側はこのような長い漢字の連なりを、人名にふさわしからず、として、これを中国風の一字名に書き換えた。
  3. その際、倭国側の書いてきた(或は口で述べた)「長たらしい名前」の一部を切り取るという手法を用いた。
  4. その際、中国側であやまって文字を書き換えたり、同じ意味の別字に書き換えたりした。(伝写の誤りも含む)

これは本当だろうか。『宋書』の夷蛮伝には数多くの夷蛮の人名が載っているが、それが3字だろうと4字だろうと、7字だろうと、原音のまま表音表記されている。

これは、『南斉書』『梁書』も変わらない。

『魏志倭人伝』も倭の女王の名は「卑弥呼」と記されており、一字を勝手に切り取って載せると言うことはしていない。後の『隋書』も同じだ(「多利思北孤(たりしほこ)」)。

では、一字名はどこから生まれたのか。百済(くだら)伝・高句麗(こうくり)伝をみれば、その王達は「余映」「高璉」などの中国名を名乗っている。

これらは自ら中国風の名を名乗ってきたのだ。(いわゆる「五胡」も、中国の文化を受容するにつれ、中国風の名称を用いるようになっていった)「倭の五王」もその例である。

宋書には倭王武の上表文が、長文引用されている。この中で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とある。

従来これを「近畿を中心とした倭国版の中華思想のあらわれ」と見なした。だが、これはふさわしくない。

倭王武の上表文にあらわれるとおり、倭王は、中国(南朝)の臣下として、厳にその立場を主張している。

当然、自らを「東夷」の一角におき、東夷の王として中国の天子の威徳が及ぶ範囲を、広げてきた、と倭王武は語っている。

その「海北平らぐこと・・・」だが、「神功皇后紀」や神話のように『古事記』や『日本書紀』は「朝鮮」を「海西」としている。

したがって、倭の五王の居城は九州にあったと見なすのが、最も自然である。


⑦邪馬台国と倭の五王の連続性
貴む可(べ)き哉(かな)、仁賢(じんけん)の化(か)や。然(しか)して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故(ゆえ)に孔子、道の行われざるを悼(いた)み、設(も)し海に浮かば、九夷に居(お)らんと欲(ほっ)す。以(ゆえ)有る也(か)。夫(そ)れ、楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為(な)す。歳時を以(もっ)て来献す、と云う。漢書、地理志、燕地

最後の一文だけが、あまりに有名だが、全体としては、このような文脈である。

最初に「仁賢」と言っているのは、「箕子(きし)」である。この直前の部分で、班固は朝鮮半島に箕子が赴(おもむ)き、仁義礼を広めたのだ、と語っている。それを受けて、「そのおかげで、東夷は柔順で他の夷蛮とはその点で異なるのだ」と言っているのである。

「だから、孔子が中国国内で礼の道が行われないのを悼(いた)んで、海に浮かんで九夷の住む地に行きたいと思ったのだ、というのには理由があるのだ。そもそも、楽浪海中には、倭人がいて…」これが文脈である。

「孔子が海を渡って九夷の住む地に行きたいと語った」という説話は、『論語』にも見える。少なくとも漢代には周知の説話だったはずである。

班固はその説話を踏まえて、孔子がそう思った理由を推察している。

それが「楽浪海中に倭人有り」である。ここから明らかなように、「孔子は朝鮮半島の先の海中に倭人が居たことを知っていた」と、少なくとも班固は思っているのである。

同じ漢代の『論衡(ろんこう)』に次の一文がある。

周の時、天下太平、越裳(えっしょう)白雉(はくち)を献じ、倭人鬯草(ちょうそう)を貢す。白雉を食し、鬯草を服するも、凶を除く能(あた)わず。論衡、儒増

著者王充は班固と同時代(5つ年上)の人物である。

彼は、『論衡』において、儒家としての彼の主張を表現している。彼の主張はこうだ。

「周は白雉や鬯草の貢献を受け、それを使用した(白雉・鬯草ともに、吉祥を招く縁起物)にもかかわらず、凶(=春秋戦国を経た、滅亡)を避けられなかった。(非合理的な儀式や迷信に根拠は無かったのだ)」儒家得意の合理主義がここに現れている。

孔子は、周王朝の最中に居たから、ここまで、痛烈な批判は出来なかったが、漢において王充はそれを行ったのである。

このような文脈に現れる「倭人」は、周の時代に「貢献」したのだという。

このとき、王充にとって、「周代の倭人貢献」は、周知の事実だった、と見なすほか無い。

なぜなら、そうでなければ、ここで王充が最も語りたい「周の儀礼主義批判」は、空振りに終わってしまうのである。

当然、王充は、同じ漢代の読者にとっても「周代の倭人貢献」が常識的な説話であることを知っていた。

このように見る時、その5つ年下の班固が、語る「楽浪(らくろう)海中」の「倭人」は、王充の語る「倭人」に等しいという、当たり前の事実が判明するのである。ここで、班固の文脈を振りかえろう。

「だから、孔子が中国国内で礼の道が行われないのを悼んで、海に浮かんで九夷の住む地に行きたいと思ったのだ、というのには理由があるのだ。そもそも、楽浪海中には、倭人がいて、…(周の時に)来献したのだというのである」

考えても見よう。『漢書』の「倭人貢献」が、漢代の出来事ならば、最後に「と云う」で結ぶことなどありえない。

これは、「倭人貢献」が漢代の事実を指したものではなく、それ以前を指したものだと言うことを示唆する。

さて、王充と班固は後漢の人物である。王充は建武三年(27)の生まれ、班固は建武八年(32)の生まれである。

ちょうど彼らの生きた時代、それも20代後半から30代にかけて、洛陽で話題になったのが、「倭人」だった。

 建武中元二年(57)、倭奴国、奉貢朝賀す。…光武、賜(たま)うに印綬(いんじゅ)を以てす。後漢書、倭伝

「朝賀」とは、「朝廷の儀礼に参加し、礼を尽くす」という意味であるから、倭人は洛陽に来ったのである。

そして、華々しく金印を授与された。当然、光武帝側にとっても、一大イベントだったはずだ。ちょうどその頃、班固も王充も洛陽にいた。「太学」に学んでいた最中だったのである。従って、班固が、

楽浪海中に倭人有り。

といい、王充が、

倭人鬯草を貢す。

と言った時、「直接的」には、この「金印の倭人」をイメージしているのである。

少なくとも、漢代の知識人にとっては、「周代の倭人」と「後漢代の倭人」は同一のものと見なされている。

 倭人は帯方の東南大海の中に在(あ)り。山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。三国志、魏志倭人伝

これが『魏志』の倭人伝の冒頭部分である。

『三国志』の「今」が晋の時代(陳寿の三国志執筆時代)を指していることは言うまでも無い。

ここで、「漢の時朝見する者有り」と言っているのは、当然、後漢代の遣使である。

『後漢書』の記述は、『三国志』を受けてのものである。当然、『三国志』の倭と『後漢書』の倭は同一だ、といっているのである。

後漢のころに朝貢した倭、それは当然「博多湾岸」のものである。「金印」がその最大の証拠だ。

このことから、「邪馬台国は博多湾岸にあり」という結論になる。

【日野智貴の多元王朝論】<第二回>邪馬台国・邪馬壹国九州説

④部分と全体の論理
 倭人伝には二つの「里程」が存在する。一は、帯方郡治から倭国の首都に至る間の各「区間里程」である。二は、同じ距離の「総里程」である。したがって当然、「区間里程の総和は総里程」である。

では、その両者(区間里程と総里程)を挙げよう。

A)区間里程

1.七千余里  帯方郡治→狗邪韓国
2.千余里   狗邪韓国→対海国
3.方四百余里 対海国の面積
4.千余里   対海国→一大国
5.方三百里  一大国の面積
6.千余里   一大国→末盧(まつろ)
7.五百余里  末盧国→伊都国
8.百里    伊都国→奴(な)国(傍線行程)
9.百里    伊都国→不弥(ふみ)
B)総里程

  1. 一万二千余里 帯方郡治→女王国

C)日程

  1. 水行二十日 不弥国→投馬国(傍線行程)
  2. 水行十日・陸行一月 帯方郡治→女王の都する所

さて、まずC)の「日程」は、「区間里程」には含まれない(従来、C-(2)を投馬国→邪馬壹国の「里程」とする)。

しかし、当然ながら、この記事は日程を示すものであり、「里程」ではない。「総里程」が判明している以上、「区間里程」の一部を「日程」で示すことなど通常考えられぬ。

これは自明の道理である。

さて、「三国志」の用法を検証すると、以下のことがわかる。「至」の用法である。

a)進行を示す先行動詞(「行」など)+「至」

行きて曲阿に至る。呉志三

諸軍数道並行して漢中に至る。魏志二十八

これが通常の形である。

b)(先行動詞なし)「至」

東、海に至り、西、河に至り、南、穆陵に至り、北、無棣に至る。魏志一

このような場合、一つの基点をもとに、そこからの位置付けを示している。(四至)以上のような「至」の用法をかんがみるとき、A-(8)の記事は、b)の用例であることがわかる。

東南、奴国に至る、百里。魏志倭人伝

つまり、この(8)の記事は、基点である「伊都国」からの「奴国」の位置付けを示しているものであり、「帯方郡治→邪馬壹国の主線行路」ではないのである。(C-(1)の「投馬国」も同様に「傍線行路」)

以上によって、その区間里程を計算してみると、(1)(2)(4)(6)(7)(9)の合計は一万六百里。B)の一万二千里には、千四百里足りない。

ここで、(3)と(5)が注目される。これは従来、面積であるから「里程」に含まぬ、と見なされてきたものである。

それが、盲点だったのである。当然、魏使はこの「対馬」と「壱岐」、即ち「対海国」と「一大国」を通過したのである。この場合、「半周通過」が自然である。

そのように計算した場合、対海国の半周=八百里、一大国の半周=六百里であり、計千四百里である。これを先の一万六百里と合わせて、ちょうど一万二千里となる。

ここで「区間里程の総和が総里程」となったわけである。

以上の結果は次の結論を導く。「不弥国=邪馬壹国の玄関」である。

なぜなら、不弥国で丁度、里程記事が終わっているからである。即ち、これは次の命題をうむ。

「不弥国は邪馬壹国の一部」と。それでは、邪馬壹国(邪馬台国)の中心地はどこか。そこから、次の論証は始まる。

⑤短里の証明
魏志倭人伝の中で最も重要な位置を占め、最も軽視されてきたもの、それは「里程」である。

「郡より倭に至るには…」で始まり、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所」に至るまで、方角と里程を順次示している。

『三国志』において、このような記載は他にない。このような実態をもつ魏志倭人伝の「里程」記事が、これまで軽視されてきたのは、「魏志倭人伝の規定記事には誇張がある」と従来言われてきた為だ。

なぜか。それは、魏志倭人伝に見える「里程値」が、われわれの通常知る「里」単位では、あまりに距離が長過ぎる為である。

魏志倭人伝には、帯方郡治から倭国の首都までの距離が、「万二千里」とある。これは、われわれの常識的な里(漢の「里」なら一里=約435メートル)で言えば、5,220キロであり、とても日本列島には収まらない(記述どおりに主に南へ進路をとった場合)。

この為に、「倭人伝の里程は信用できぬ」と従来言われてきた。一方では、「方角」が信用できぬと言われてきたのである(南を東に改定し、近畿を目指す論者)。

しかし、「魏志」に記載されている「里」を詳細に検討してみると、以下のことが言える。

?韓伝によれば、韓地の面積は「方四千里」である。これは、「方~里」の用法から、「一辺四千里」の四角形に外接する面積」である。朝鮮半島の東西幅は300~360キロであり、これが「四千里」であるという。

これは、「漢の里」なら「約7~800里」であるべきであり、魏志の記述はその5~6倍ある。(韓地の東西幅は、朝鮮半島の東西幅と同じ)

通例、魏志倭人伝の里程には約5倍の誇張がある、とされているが、ちょうど、韓伝の記述も同じ「里」単位で書かれていると見なせる。ここで、以下のことが注目される。

  1. 韓地は、漢代においてすでに漢の四郡の置かれた土地であり、陳寿の時代(魏→晋)においても、周知の土地である。ここに、5倍もの誇張を書くべきところではない。
  2. 韓地の北境は帯方郡と接している。すなわち、韓地の北境=中国直轄領の南境といえる。中国自身の直轄領に対して5倍もの誇張を書くべきいわれはない。
  3. 倭人伝において、「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴るに、乍ち南し乍ち東し、其の北岸狗邪韓国に至る、七千余里」の記述は、帯方郡治を起点とするから、「韓国」を含む表現である。

    したがって、この七千余里も、「中国国内と韓国」ともに同じ「里」単位で示したものと見なさなくてはならない。
  4. 同様に、「郡より女王国に至る、万二千余里」も、「韓地内」を含むから、ともに同じ「里」単位で示したと見なさざるを得ない。
  5. 魏志全体の「里」単位を抽出すると、すべて(その実距離が判明するもの)、韓伝、倭人伝のそれと同一の「里」単位であると見なせる。

以上のことから、「魏志」においては、「漢の里」の約5~6分の1の「里」単位を使用してたことがわかる。「短里」である。

朝鮮半島の東西幅(300~360キロ)=四千里であるから、この「短里」は一里=75~90メートルである。

また、倭人伝において、壱岐に当たることが確実視されている「一大国」の面積が「方三百里」としているから、一里は75メートルに近い値であると考えられる。

この短里は、「魏志」のほか、「江表伝」「魏略」「海賦」等の魏晋朝の文献にも認められ、魏晋朝において使用されていた、「里」単位であることは疑いない。

以上によって、魏志倭人伝における「里程値」が決して誇張などでなく、当時用いられた「短里」による「実定値」であることが判明する。

こうしてみると、どのように考えても「邪馬壹国=九州」とせざるを得ないのである。

【日野智貴の多元王朝論】<第一回>神武天皇と邪馬壹国

①神武天皇について

神武天皇が実在したことは古田武彦、安本美典(やすもと-びてん)といった文献史学者によって主張されてきた。

二人の説の大筋は北九州の王朝(邪馬台国、邪馬壱国)の分流が銅鐸(どうたく)圏に侵入したという。

詳しい論証は省(はぶ)くが『魏略』によれば当時の日本は倍数年歴を使用しており、『古事記(ふることふみ)』の長寿の記述も怪しむ必要はない。

だいたい長寿の記述は雄略天皇のころまであり、「長寿だから実在してない」では、神武から雄略に至るほとんどの天皇が架空となる。

これは「雄略天皇による日本統一」という定説の自己否定であり、津田左右吉(つだ-そうきち)の左翼史観がいかに矛盾に満ちているかがよくわかる。

なお、古田武彦昭和薬科大学元教授(日本思想史)は一般に左翼だと言われており、その古田氏でさえ津田史学を疑っているのだ。

*稲荷山(いなりやま)鉄剣の解釈も矛盾に満ちているがそのことについては別に述べる。

②『魏志』の里程解釈

【郡より倭に至るには、海岸に循ひ(したがい)て水行し、韓國を歴(へ)るに乍(たちま)ち南し乍ち東し、その北岸狗邪(くや)韓國に至る七千余里。】
ここで「七千里」という里程が出てくる。これについて考えよう。
これは「どこからどこへ」をあらわすのだろうか。「帯方郡から倭国まで」と答えた人、あなたは零点です。「同郡から狗邪韓国」と答えた人、50点です。
みなさん、どこにもそんなこと書かれていませんよ。そう、答えはないのです。(つまり、質問から間違っている)

今の日本人は「あそこからここまで何キロ」という風に考えがちですが、昔は必ずしもそうではありません。『魏志』の「倭人伝」でそう書かれてあるのは一回だけ、【郡より女王國に至ること萬二千余里。】の例だけです。

【韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し…】これは「韓国の内の里程」を表しています。つまり、「倭人伝」の多くの里程は「あそこの国は何里」という形で書かれてあるのです。

【倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或(あるい)は絶え或は連なること、周施五千余里なる可(べ)し。】

ここでは、倭国は海を中心とした国であるとされています。狗邪韓國が「倭の北岸」としているのもそのためで、中国人から見ると「倭国は海の国」であるわけです。

また、ここで「倭国は(周施)五千余里」とされています。「韓国は七千余里」という先ほどの例と同じです。

【始めて一海を渡ること千余里、対馬(つしま)國に至る。】これは「海は何里」という形です。このように解釈していくと、これまでの「倭人伝」解釈は完全に誤読されていたことがわかります。

なお、倭国五千里のうち、三千里は朝鮮海峡です(先ほどの文が三回繰り返される)。残りは二千余里で、韓国が七千里であることから考えると、九州説に軍配が上がります。

③邪馬壹国の物証
 一世紀から三世紀にかけての「後期弥生時代」の遺跡状況、そこに「邪馬台国近畿説」を裏付けるものは果たしてあるのだろうか。

まず、「銅鏡」。これには二つの分布がある。
三角縁(さんかくぶち)神獣鏡―奈良、京都
漢式鏡   -福岡
このうち、三角縁神獣鏡は日に日に「近畿有利」を裏付けている。しかし、九州論者は「それは国産」と主張する。このような論争は考古学者の領域で、私は関わらないが、もうひとつの証拠を忘れてはならない。
「宮室(きゅうしつ)・楼観(ろうかん)……常に人有り、兵を持して守衛す」
「兵には矛(ほこ)・楯(たて)・木弓を用う」魏志倭人伝

この「矛」は、当然「銅矛」が中心であろう。(「石矛」「鉄矛」であったとしても、弥生時代の「矛」分布は、「銅矛」のそれと相違ないはずである)
では「銅矛」の分布。
奈良― 0例
福岡―123例
大分― 50例
佐賀― 12例
熊本― 9例
福岡が明らかに多い。
では、具体的にどこか。それも詳しく見よう。
<福岡>筑前(博多湾岸等)大型矛 80
<福岡>筑後(八女市等) 同   43

次に、「鉄器」。
近畿― 80点
九州―344点
内、「武器」。
近畿― 24点
九州―134点
さらに県別でみよう。
福岡―106例
大分― 75例
京都― 5例
奈良― 1例
大阪― 27例
兵庫― 42例
香川― 46例
全ての件をあげれないが、代表的なものは以下のとおりである。

次に「勾玉(まがたま)」。
倭人伝によれば、倭は中国に勾玉(勾珠)を献上している。

「白珠五千孔・青大勾珠二枚…貢す」

これによれば、献上されたのは青く大きな勾玉であった。「ガラスの勾玉の鋳型(いがた)」の出土例をみれば、「博多湾岸」領域が最もふさわしい。

さらに、「大型鉄器」。
福岡 ―38例
長崎 ―17例
鹿児島―10例
奈良 ― 0例
ほかに、一点、二点、三点の出土はあるが、10点以上の出土は上の三つだけである。

さて、これで「一世紀から三世紀の倭国の首都=福岡県」という命題、これを疑うことはできない。つまり、「邪馬台国近畿説は有り得ない」と言えるのだ。

もはや、考古学における近畿説の根拠は三角縁神獣鏡と古墳のみ。さらに、銅鏡ならもう一つある。これを「漢式鏡」という。
福岡―149点
佐賀― 11点
兵庫― 2点
山口- 1点
岡山― 1点
奈良― 0点
他 - 1点
もう中心地ははっきりした。福岡県である。

いや、結論を急ぐのは早い。「国力」は「鏡」では決まらない。「技術力」「生産力」もその要因である。

それでは、「鉄製の農具」をみてみよう。
九州―39点
近畿― 0点
はっきり言って、これでもう「決まった」のではないだろうか。

なぜなら「農具用に鉄なし」という状態、それで「倭国の盟主」即ち邪馬台国(邪馬壹国)の場所とするなど、愚かも甚だしいからである。

「近畿に鉄製農具なし」・・・この事実は重い。農業は国の命である。それに「鉄がない」とは「国力が低い」ことの証明とはならないのだろうか?

当時、鉄は韓国から輸入されていた。おそらく、九州が鉄の封鎖をしたのであろう。もう、「邪馬台国近畿説」は完全に崩壊したのである。

憲法復原・改正論


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憲法無効論については、以前このブログで述べたことがあるが、それについて再び述べたい。

暫定憲法論

A朕(ちん)(が)祖宗(そそう)ニ承(う)クルノ大権ニ依(よ)リ現在及(および)将来ノ臣民ニ対シ此(こ)ノ不磨ノ大典ヲ宣布(せんぷ)
B現在及(および)将来ノ臣民ハ此(こ)ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ(おうべし)
C憲法ノ条項ヲ改正スル必要アルトキハ勅命(ちょくめい)ヲ以(もっ)テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘ(べ)
D天皇ハ法律ニ代ルヘキ(かわるべき)勅令(ちょくれい)ヲ発ス

AとBは前文の「憲法発布勅語」である。Dは『大日本帝国憲法』第八条である。Bにおいて、「将来の臣民は此の憲法に対して永遠に従順の義務を負う」とある。Dにおいて、天皇の勅令は法律と同様であると記されてある。

D天皇ハ法律ニ代(かわ)ルヘ(べ)キ勅令(ちょくれい)ヲ発ス

「憲法発布勅語(ちょくご)」は天皇によって定められた「法律に変えるべき勅令」(帝―八条)<帝は帝国憲法の略、以下同>である。その「法律」には、「将来の臣民は此(こ)の憲法に対して永遠に従順の義務を負(お)う」と記されている。

では、どうやって放棄するか。

ハーグ陸戦法規』と「憲法発布勅語」に基づいたと言ったらよい。占領中に作られた憲法は有効だとしても放棄された先例はあるのです。

憲法の前文

「憲法ノ条項ヲ改正スル必要アルトキハ勅命(ちょくめい)ヲ以(もっ)テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘ(べ)シ」――これは、「憲法の条項」のみを改正できる、という意味である。

従って、憲法の前文等は改正できないのである。

それでは、『大日本帝国憲法』と『日本国憲法』の前文を見てみよう。

大日本帝国憲法の正当性は「憲法発布勅語(ちょくご)」という名の法律に示されている。ここにその全文を示そう。素晴らしい名文である。

憲法発布勅語
(ちん)国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以(もっ)テ中心ノ欣栄(きんえい)トシ朕(ちん)(が)祖宗(そそう)ニ承(う)クルノ大権ニ依(よ)リ現在及(および)将来ノ臣民ニ対シ此(こ)ノ不磨ノ大典(たいてん)ヲ宣布(せんぷ)
惟フ(おもう)ニ我カ(わが)祖我カ(わが)(そう)ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼(ほよく)ニ倚(よ)リ我カ帝国ヲ肇造(ちょうぞう)シ以テ無窮(むきゅう)ニ垂(た)レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並(ならび)ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公(こう)ニ殉ヒ(したがい)以テ此(こ)ノ光輝アル国史ノ成跡(せいせき)ヲ貽(のこ)シタルナリ朕(ちん)我カ(わが)臣民ハ即(すなわ)チ祖宗(そそう)ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ其(そ)ノ朕(ちん)(が)意ヲ奉体(ほうたい)シ朕(ちん)(が)事ヲ奨順(しょうじゅん)シ相与(あいとも)ニ和衷(わちゅう)協同シ益々(ますます)我カ(わが)帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚(せんよう)シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固(きょうこ)ナラシムルノ希望ヲ同(おなじ)クシ此ノ負担ヲ分(わか)ツニ堪フ(たう)ルコトヲ疑ハサ(わざ)ルナリ

(ちん)祖宗(そそう)ノ遺烈ヲ承(う)ケ万世(ばんせい)一系ノ帝位ヲ践(ふ)ミ朕(ちん)(が)親愛スル所ノ臣民ハ即(すなわ)チ朕(ちん)(が)祖宗(そそう)ノ恵撫(けいぶ)慈養シタマヒ(い)シ所ノ臣民ナルヲ念ヒ(おもい)(そ)ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳(いとく)良能ヲ発達セシメム(ん)コトヲ願ヒ(ねがい)又其(そ)ノ翼賛ニ依(よ)リ与(とも)ニ倶(とも)ニ国家ノ進運ヲ扶持(ふじ)セム(ん)コトヲ望(のぞ)ミ乃(すなわ)チ明治十四年十月十二日ノ詔命(しょうめい)ヲ履践(りせん)シ茲(ここ)ニ大憲(たいけん)ヲ制定シ朕カ(が)率由(そつゆ)スル所ヲ示シ朕(ちん)(が)後嗣(こうし)(および)臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行(じゅんこう)スル所ヲ知ラシム
国家統治ノ大権(たいけん)ハ朕(ちん)(が)(これ)ヲ祖宗(そそう)ニ承(う)ケテ之(これ)ヲ子孫ニ伝フ(つたう)ル所ナリ朕及(および)(ちん)(が)子孫ハ将来此(こ)ノ憲法ノ条章ニ循ヒ(したがい)(これ)ヲ行フ(おこなう)コトヲ愆ラサ(あやまらざ)ルヘ(べ)
(ちん)ハ我カ(わが)臣民ノ権利及(および)財産ノ安全ヲ貴重(きちょう)シ及(および)(これ)ヲ保護シ此(こ)ノ憲法及(および)法律ノ範囲内ニ於(おい)テ其(そ)ノ享有(きょうゆう)ヲ完全ナラシムヘ(べ)キコトヲ宣言ス
帝国議会ハ明治二十三年ヲ以(もっ)テ之(これ)ヲ召集シ議会開会ノ時ヲ以(もっ)テ此(こ)ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期(き)トスヘ(べ)
将来若(もし)(こ)ノ憲法ノ或(あ)ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜(じぎ)ヲ見ルニ至ラハ(いたらば)(ちん)(および)朕カ(が)継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執(と)リ之(これ)ヲ議会ニ付シ議会ハ此(こ)ノ憲法ニ定(さだ)メタル要件ニ依(よ)リ之(これ)ヲ議決スルノ外(ほか)(ちん)(が)子孫及(および)臣民ハ敢(あえ)テ之(これ)(が)紛更(ふんこう)ヲ試(こころ)ミルコトヲ得サルヘシ(えざるべし)
(ちん)(が)在廷(ざいてい)ノ大臣(たいしん)ハ朕(ちん)(が)(ため)ニ此(こ)ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク(にんずべく)(ちん)(が)現在及(および)将来ノ臣民ハ此(こ)ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ(おうべし)
御名御璽(ぎょめいぎょじ)
明治二十二年二月十一日

『日本国憲法』にはそれを支持する法律がなく、かわりに「序文」という名の反省文が描かれてある。

「序文」 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢(けいたく)を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍(さんか)が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存(そん)することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅(しょうちょく)を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつ(っ)て、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従(れいじゅう)、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努(つと)めてゐ(い)る国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ(う)。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免(まぬ)かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつ(っ)て、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふ(したがう)ことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ(ちかう)

一歩の明治憲法には「告文(こうもん)」まである。

皇朕(わ)レ謹(つつし)ミ畏(かしこ)
皇祖(こうそ)
皇宗(こうそう)ノ神霊ニ誥ケ(つげ)(もう)サク皇朕(わ)レ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ宏謨(こうばく)ニ循ヒ(したがい)惟神(ただかみ)ノ宝祚(ほうそ)ヲ継承シ旧図(きゅうと)ヲ保持シテ敢(あえ)テ失墜スルコト無シ顧(かえり)ミルニ世局ノ進運ニ膺(あた)リ人文(じんもん)ノ発達ニ随ヒ(したがい)(よろし)
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徴(めいちょう)ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示(しょうじ)シ内ハ以(もっ)テ子孫ノ率由(そつゆ)スル所ト為(な)シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行(じゅうこう)セシメ益々(ますます)国家ノ丕基(ひき)ヲ鞏固(きょうこ)ニシ八洲(やしま)民生ノ慶福ヲ増進スヘ(べ)シ茲(ここ)ニ皇室典範及(および)憲法ヲ制定ス惟フ(おもう)ニ此(こ)レ皆
皇祖
皇宗ノ後裔(こうえい)ニ貽(のこ)シタマヘ(え)ル統治ノ洪範(こうはん)ヲ紹述(しょうじゅつ)スルニ外(ほか)ナラス(ず)(しか)シテ朕(ちん)(が)(み)ニ逮(および)テ時ト倶(とも)ニ挙行スルコトヲ得(う)ルハ洵(まこと)
皇祖
皇宗(こうそう)(および)我カ(わが)
皇考ノ威霊ニ倚藉(いせき)スルニ由(よ)ラサ(ざ)ルハ無シ皇朕(わ)レ仰(あおぎ)
皇祖
皇宗及(および)
皇考ノ神祐ヲ祷(いの)リ併(あわ)セテ朕(ちん)(が)現在及(および)将来ニ臣民ニ率先シ此(こ)ノ憲章ヲ履行シテ愆(あやま)ラサ(ざ)ラム(ん)コトヲ誓フ(ちかう)庶幾(ねがわ)クハ(ば)
神霊此(こ)レヲ鑒(かんが)ミタマヘ(え)

これで両者が完全に異なるのは明らかである。
 

憲法復原の方法

それではいかにして憲法を復原するか、であるが、これについては、「事情判決の法理」というものが存在する。

簡単に言うと、「原状回復」が不可能な状態に至った場合には、違法でも有効とみなされる、ということである。「一票の格差」問題では、直ちに無効とすると混乱が大きいため、「将来効判決」が出されたこともある。

「通常、違憲判決は、当事者に関しては遡及効がある。事件が発生した時点に戻って宣言しない限り、具体的事件の解決としては役に立たないからである。例えば、尊属殺を違憲とする判決が当事者に対しても将来に向かってしか有効でないのであれば、問題となった事件の被告人は、死刑または無期懲役という処断を避けることはできない。したがって、訴訟当事者に関しては、違憲判決も遡及効を持つと言わなければならない。しかし、それ以外の者に対しては、将来効を有する。例えば、検察官は、以後、尊属殺で起訴すべきではなく、法務省は尊属殺による収容者を速やかに仮釈放すべきであり、国会は速やかに尊属殺規定を削除すべき憲法上の義務を負うことになる。このように、当事者は遡及効、対社会的には将来効と分かれるところから、通常の違憲判決の持つ効果を、相対的将来効判決と呼ぶ」http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/seminar/1020unconstitutional_judgment.htm

期限を区切った将来効判決では、国会に「違憲」である現状の是正が期限を区切って求められる。そして、この憲法無効論でも、国会が将来効決議を行えばどうか。

「国権の最高機関」たる国会が、以下の決議を行う。

「『日本国憲法』は法理論上、無効である。しかし、憲法は長い間国民に定着し、『大日本帝国憲法』をそのまま復原すると混乱が生じる。そのため、一年後を持って『日本国憲法』を失効させ、その間に、『大日本帝国憲法』第73条の規定に準拠し、貴族院の権能を参議院に代行して、自主憲法を制定すべきことをここに決議する」

その後、以下の手続きで自主憲法を制定する。

①<憲法無効の将来効決議>
②<天皇が憲法改正の草案の勅令を出す>
③<内閣の国務大臣が天皇の勅令に副署し憲法改正を発議>
④<衆議院三分の二以上の議員が参加した議会で三分の二以上の賛成>
⑤<参議院でも同様の手続き>
⑥<憲法改正の公布>

これが社会的混乱も最も少ない、憲法無効論の法実践であると思われる。

2013年4月 3日 (水)

「施設内虐待を許さない会」の虚偽報道について

「施設内虐待を許さない会」が、宗教法人「生長の家」の監督下にある児童養護施設「生長の家神の国寮」において児童虐待が行われているという文章を掲載している。

http://gyakutai.yogo-shisetsu.info/rep/kamino/ugoki0010708b.html

同様の文章はその後も拡散され、『自分が自分であるために』という反・生長の家の書物からも、現在に至るまで引用され続けている。

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20080421/1208742093

しかし、その多くは匿名での証言であり、到底信用できる代物ではない。

そもそも、この施設は生長の家の施設ではない。

http://www.kamino92.or.jp/outline.htm

「生長の家神の国寮」のHPには、
「設置主体 公益法人生長の家社会事業団」
とあり、この「生長の家社会事業団」はそのHPに次のような文章を掲載しています。

「尊師谷口雅春先生は生長の家社会事業団設立の際、聖典「生命の実相」 はじめいくつかの聖典の著作権を社会事業団に寄附されました。 」

「その聖典に対し、生長の家社会事業団が教団及び日本教文社から、著作権に対して違法な行動を取られたため、聖経、『生命の実相』を後世に守り残すため、裁判所への提訴等の護法の運動を起されました。」

まず、注目すべきは、生長の家創始者である谷口雅春先生を「尊師」としている点である。なんだこれ?オウム真理教か?と言いたくなるような文章だが、生長の家では谷口雅春先生への個人崇拝は行なわれておらず、「尊師」「開祖」等の名称で呼んではいない。

生長の家のHPでは生長の家社会事業団について次のように記してある。

http://www.jp.seicho-no-ie.org/news/sni_news_20120309.html

2.松下昭氏が同事業団理事長に就任した後の状況

平成10年1月、生長の家理事だった松下昭氏が同事業団の理事長に就任しました。平成12年に生長の家理事を退任した松下氏は、理事長就任から8年以上を経た平成18年12月13日の同事業団の理事会において、改選理事に関する松下理事長の提案及び別案の採決が、異例の可否同数となって紛糾し、改選をやり直すべきとの監事の仲裁があったにも拘らず、その仲裁も聞き容れず、理事長裁定によって自ら提案した通りの理事の改選案を決定してしまいました。これにより、同氏に同調する理事が理事会の多数を占めるようになりました。

その後、同事業団は宗教法人「生長の家」の意向を無視し、勝手に日本教文社に対して『生命の實相』頭注版のリニューアル化を主張したり、長年にわたり日本教文社が谷口雅春先生及び谷口輝子先生、谷口清超先生、谷口恵美子先生にお支払いしてきた『生命の實相』等の復刻版の印税について、同印税は同事業団に支払われるべきであり、谷口雅春先生及び谷口輝子先生、谷口清超先生、谷口恵美子先生への支払いは認められない、日本教文社に上記復刻版の印税の未払いがあるとして、日本教文社に二重の印税の支払いを請求してきました。更に、平成20年9月27日には『生命の實相』黒布表紙版第16巻(昭和16年9月1日刊)から「神道篇日本国の世界的使命」の中の「第1章古事記講義」の部分だけを抜き出した『古事記と日本国の世界的使命』を光明思想社(代表取締役 白水春人=元日本教文社社員)から発行させました。

前記のとおり、同事業団が、宗教法人「生長の家」の承認、同意を得ることなく、谷口雅春先生がご自身の著作物を出版されるために信徒に出資を呼びかけられて日本教文社を設立され、日本教文社に恒久的に与えられた『生命の實相』等の出版権を侵し、更に勝手に別の出版社(光明思想社)から出版するというような事態は、昭和21年の同事業団設立以来、初めてのことであり、それ以前には一切なく、考えられもしなかったことです。

3.生長の家の布教方針に対する不満グループの存在

同事業団が宗教法人「生長の家」に批判的なのは、同事業団の平成24年1月31日付声明を見ても明らかです。しかし、宗教法人「生長の家」に批判的なグループは、例えば宗教法人「生長の家」を公然と批判する「谷口雅春先生を学ぶ会」(代表 中島省治=元日本教文社社長)など、残念ながら同事業団以外にも存在します。

同事業団が教区役職者宛に送付した本年2月27日付書面に[政治運動及び文化運動も含めた国家社会救済の一大運動が「生長の家社会事業団」]とあるように、そうしたグループは、現在の宗教法人「生長の家」が、かつてのような政治活動を伴う“愛国運動”に取り組まず、環境問題に力を入れていることなどに不満があるようです。

同事業団は、例えば松下理事長が「谷口雅春先生を学ぶ会」が責任編集の『谷口雅春先生を学ぶ』誌平成24年4月号において本件訴訟について語ったり、同号52頁の[新編『生命の實相』奉賛会]のご案内]という欄には[「財団法人生長の家社会事業団」、「谷口雅春先生を学ぶ会」、「株式会社 光明思想社」の三団体が結束し、志を同じくして(後略)]と記されているなど、そういう宗教法人「生長の家」の布教方針に不満を持つグループと手を結び、同事業団が谷口雅春先生の幾つかの著作物の著作権名義を有していることを利用して、宗教法人「生長の家」の文書伝道を阻害することを目的に、本件訴訟を巡る紛争を引き起こしたものと言えます。

すなわち、松下氏が主導する同事業団は、同事業団が著作権名義を有する著作物について日本教文社の恒久的な出版権を否定し、宗教法人「生長の家」に批判的な白水氏が社長を務める光明思想社(同社は『谷口雅春先生を学ぶ』誌の発行所)から、それらの著作物の出版をさせています。この同事業団の出版行為は、谷口雅春先生による同事業団の「寄附行為(定款)」に定められた事業目的ならびに事業の範囲を逸脱する宗教活動を目的とするものと解されます。

文書伝道を特徴とする生長の家にとって、『生命の實相』をはじめ谷口雅春先生の著作の出版その他の利用は、布教活動の基本です。したがって、同事業団はたとえ著作権を有するとしても、それは社会厚生福祉事業の資金として著作権収入を受領するためであり、出版その他の利用の決定、管理については、布教活動を統括する宗教法人「生長の家」が行い、出版については谷口雅春先生の提唱により、生長の家の書籍を出版する会社として設立された日本教文社が行ってきたものであります。

ところが、松下氏の主導するところとなった平成18年12月以降、同事業団はそれまで認めてきた上記の状況を否定し、自らに著作権が存するとする著作物の出版その他の利用を行うことにより、宗教法人「生長の家」の文書伝道を阻害しようとしているのが、本件訴訟を巡る紛争の本質です。このような同事業団の行為は、谷口雅春先生が同事業団を設立した趣旨に反するものであり、谷口雅春先生の御心に反するものであることは明らかです。

これを見てもわかるように生長の家社会事業団は生長の家とは全く別の組織であり、むしろ、対立する組織である。1998年以降、生長の家社会事業団となった松下昭は自由民主党守旧派の送り込んだエージェントであると考えられ、彼の行動と生長の家とは全く関係がない。

再び「生長の家神の国寮」のHPを見ていただきたい。

http://www.kamino92.or.jp/outline.htm

ここには、
「代表 松下昭」
と明記されている。このこと一つとっても、生長の家と「生長の家神の国寮」とは全く無関係の組織であることがわかる。

以上。

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