【日野智貴の多元王朝論】<第一回>神武天皇と邪馬壹国
①神武天皇について
神武天皇が実在したことは古田武彦、安本美典(やすもと-びてん)といった文献史学者によって主張されてきた。
二人の説の大筋は北九州の王朝(邪馬台国、邪馬壱国)の分流が銅鐸(どうたく)圏に侵入したという。
詳しい論証は省(はぶ)くが『魏略』によれば当時の日本は倍数年歴を使用しており、『古事記(ふることふみ)』の長寿の記述も怪しむ必要はない。
だいたい長寿の記述は雄略天皇のころまであり、「長寿だから実在してない」では、神武から雄略に至るほとんどの天皇が架空となる。
これは「雄略天皇による日本統一」という定説の自己否定であり、津田左右吉(つだ-そうきち)の左翼史観がいかに矛盾に満ちているかがよくわかる。
なお、古田武彦昭和薬科大学元教授(日本思想史)は一般に左翼だと言われており、その古田氏でさえ津田史学を疑っているのだ。
*稲荷山(いなりやま)鉄剣の解釈も矛盾に満ちているがそのことについては別に述べる。
②『魏志』の里程解釈
【郡より倭に至るには、海岸に循ひ(したがい)て水行し、韓國を歴(へ)るに乍(たちま)ち南し乍ち東し、その北岸狗邪(くや)韓國に至る七千余里。】
ここで「七千里」という里程が出てくる。これについて考えよう。
これは「どこからどこへ」をあらわすのだろうか。「帯方郡から倭国まで」と答えた人、あなたは零点です。「同郡から狗邪韓国」と答えた人、50点です。
みなさん、どこにもそんなこと書かれていませんよ。そう、答えはないのです。(つまり、質問から間違っている)
今の日本人は「あそこからここまで何キロ」という風に考えがちですが、昔は必ずしもそうではありません。『魏志』の「倭人伝」でそう書かれてあるのは一回だけ、【郡より女王國に至ること萬二千余里。】の例だけです。
【韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し…】これは「韓国の内の里程」を表しています。つまり、「倭人伝」の多くの里程は「あそこの国は何里」という形で書かれてあるのです。
【倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或(あるい)は絶え或は連なること、周施五千余里なる可(べ)し。】
ここでは、倭国は海を中心とした国であるとされています。狗邪韓國が「倭の北岸」としているのもそのためで、中国人から見ると「倭国は海の国」であるわけです。
また、ここで「倭国は(周施)五千余里」とされています。「韓国は七千余里」という先ほどの例と同じです。
【始めて一海を渡ること千余里、対馬(つしま)國に至る。】これは「海は何里」という形です。このように解釈していくと、これまでの「倭人伝」解釈は完全に誤読されていたことがわかります。
なお、倭国五千里のうち、三千里は朝鮮海峡です(先ほどの文が三回繰り返される)。残りは二千余里で、韓国が七千里であることから考えると、九州説に軍配が上がります。
③邪馬壹国の物証
一世紀から三世紀にかけての「後期弥生時代」の遺跡状況、そこに「邪馬台国近畿説」を裏付けるものは果たしてあるのだろうか。
まず、「銅鏡」。これには二つの分布がある。
三角縁(さんかくぶち)神獣鏡―奈良、京都
漢式鏡 -福岡
このうち、三角縁神獣鏡は日に日に「近畿有利」を裏付けている。しかし、九州論者は「それは国産」と主張する。このような論争は考古学者の領域で、私は関わらないが、もうひとつの証拠を忘れてはならない。
「宮室(きゅうしつ)・楼観(ろうかん)……常に人有り、兵を持して守衛す」
「兵には矛(ほこ)・楯(たて)・木弓を用う」魏志倭人伝
この「矛」は、当然「銅矛」が中心であろう。(「石矛」「鉄矛」であったとしても、弥生時代の「矛」分布は、「銅矛」のそれと相違ないはずである)
では「銅矛」の分布。
奈良― 0例
福岡―123例
大分―
50例
佐賀―
12例
熊本― 9例
福岡が明らかに多い。
では、具体的にどこか。それも詳しく見よう。
<福岡>筑前(博多湾岸等)大型矛 80
<福岡>筑後(八女市等) 同 43
次に、「鉄器」。
近畿―
80点
九州―344点
内、「武器」。
近畿― 24点
九州―134点
さらに県別でみよう。
福岡―106例
大分―
75例
京都― 5例
奈良― 1例
大阪― 27例
兵庫― 42例
香川―
46例
全ての件をあげれないが、代表的なものは以下のとおりである。
次に「勾玉(まがたま)」。
倭人伝によれば、倭は中国に勾玉(勾珠)を献上している。
「白珠五千孔・青大勾珠二枚…貢す」
これによれば、献上されたのは青く大きな勾玉であった。「ガラスの勾玉の鋳型(いがた)」の出土例をみれば、「博多湾岸」領域が最もふさわしい。
さらに、「大型鉄器」。
福岡 ―38例
長崎 ―17例
鹿児島―10例
奈良 ―
0例
ほかに、一点、二点、三点の出土はあるが、10点以上の出土は上の三つだけである。
さて、これで「一世紀から三世紀の倭国の首都=福岡県」という命題、これを疑うことはできない。つまり、「邪馬台国近畿説は有り得ない」と言えるのだ。
もはや、考古学における近畿説の根拠は三角縁神獣鏡と古墳のみ。さらに、銅鏡ならもう一つある。これを「漢式鏡」という。
福岡―149点
佐賀―
11点
兵庫― 2点
山口- 1点
岡山― 1点
奈良― 0点
他 - 1点
もう中心地ははっきりした。福岡県である。
いや、結論を急ぐのは早い。「国力」は「鏡」では決まらない。「技術力」「生産力」もその要因である。
それでは、「鉄製の農具」をみてみよう。
九州―39点
近畿―
0点
はっきり言って、これでもう「決まった」のではないだろうか。
なぜなら「農具用に鉄なし」という状態、それで「倭国の盟主」即ち邪馬台国(邪馬壹国)の場所とするなど、愚かも甚だしいからである。
「近畿に鉄製農具なし」・・・この事実は重い。農業は国の命である。それに「鉄がない」とは「国力が低い」ことの証明とはならないのだろうか?
当時、鉄は韓国から輸入されていた。おそらく、九州が鉄の封鎖をしたのであろう。もう、「邪馬台国近畿説」は完全に崩壊したのである。
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