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2013年4月 7日 (日)

【日野智貴の多元王朝論】<第四回>倭の朝鮮進出

⑧高句麗(こうくり)好太王碑の改竄(かいざん)問題
高句麗好太王碑の問題は、日韓文化交流の中で微妙な問題をはらんでいる。なお、この王を以前は好太王と呼んでいたが、最近は広開土王と呼ぶようである。

現在この石碑は鴨緑江(おうりょくこう)北岸の中華人民共和国領にあるが、朝鮮半島から満洲に版土(はんと)を有する高句麗王国を発展させた好太王の事績を讃えて、4世紀末-5世紀始めに建立されたものとされる。

この石碑を世界に紹介したのは、日本陸軍の酒匂景信(さこう-かげのぶ)中尉である。日清戦争の10年前、明治17年 (1884年) のことだった。もちろん、石碑は当時の清国領土内にあった。

酒匂中尉は参謀本部から派遣され、仮想敵国である清(しん)国の内情を探っていた情報将校であるが、この使命が誤解されて、改竄説に大きな影響を与えたと思われる。

碑文には、391 年に「倭が新羅や百済(くだら)を臣下とした上、高句麗に攻め入って来た」と解釈される文言がある。好太王は倭の攻撃を撃破して高句麗の隆盛を築く訳だから、高句麗の立場からすれば極めて誇るべき功績である。

しかしこの前半を認めると、倭が朝鮮半島で大きな勢力を持っていて、新羅や百済を臣下としていた、ということを認めないといけない。

これは、韓国/朝鮮の国民感情からとても受け入れられる内容ではないだろう。そこに、この碑文が改竄されたのだ、という説が出て来る遠因があると思われる。

改竄説は古田武彦氏の「失われた九州王朝」によると、次のようないくつかの変種があるらしい。


まず、酒匂中尉が発見直後に改竄した
この説では、以下を立証しなければならない

酒匂中尉は、この碑文が古代に日本が朝鮮半島を支配していた証拠になり得ると悟った
そして、その証拠が明かになるように、碑文を改竄した

私の考えでは、これは無理である

酒匂中尉は、この碑文を理解し、古代史における重要性を悟らねばならない。酒匂中尉は考古学に興味があったそうだが、明治10年代に上のような知識や意識は持っていたとは考えにくい

酒匂中尉は碑文の拓本を購入している。 つまり、碑の利権を所有している拓工が存在する訳である。拓工を無視して碑文を改竄することは困難である

この地は仮想敵国(清国)の領土である。いかに清国の勢力が衰えたといっても、部隊も率いていない一将校が勝手に改竄できるものではない

10年後の日清戦争のときも、清国は定遠・鎮遠という巨大な戦艦を有し、日本は開戦をためらった。弱小国日本にとっては清国は「眠れる獅子」どころではなかった

碑は実に巨大で、拓本は数十枚の半紙をつなぎ合わせたものである。 酒匂中尉が自分で拓本を作ったとすれば、石碑の存在を知った上で、 これが拓本を作るほど重要なものであること
を察し、大量の紙や墨などをあらかじめ用意していないといけない。もちろん、現地の拓工と交渉した上である。まずあり得ないだろう

酒匂中尉が購入したのは碑文の拓本ではなく、双鈎本といって、拓本を元に別の紙上に筆で書き取ったものである。

したがって、写しとるときに恣意的に書き換えることは可能であるし 実際そのような字もあるらしい。ただ、それをやったのは誰かである。 上のような理由で酒匂中尉ではないだろうから、酒匂中尉の「改竄」ではないだろう

この説の提唱者は真面目(まじめ)な研究から唱えたものらしいが、 信奉者の中には以下のような思い込みを持つものはいないだろうか

酒匂中尉は情報将校、いいかえればスパイである。スパイだから、どんなことでもやる
スパイと情報将校では、与える印象がひどく違う。酒匂中尉をスパイと呼ぶ人は、この印象の違いを意識しているのだろうか

日本が後に朝鮮/韓国を併合するが、その企図はこの頃からあり、将校全員に浸透していた筈だ 清国の統治能力は弱く、日本の情報将校は何でもやり方題だった 酒匂中尉が拓本を持ち帰ってから、参謀本部はその重要性に気付き 要員を送って改竄させた

この説がなりたたないことも、古田武彦氏が論証している

この件について、注意しなければならないことがある

酒匂中尉や、後の研究者が持ち帰った初期の拓本は、原碑文そのままでない。 このことは広く知られている。

拓工が碑に石灰を塗って美麗な文字を彫っているから、研究にあたっては注意しなければならない、という初期の研究者の報告がある

この変更を(拓工ではない)誰が行ったかを証明しなければ、意図的な改竄とは呼べまい。 この証明なしに、酒匂中尉や参謀本部の改竄と呼ぶことはできない

⑨倭は4-5世紀に朝鮮半島北部に影響力を持てたか
日本において信じられている「4-5世紀において倭が朝鮮半島北部に影響力を持っていた」という考えに対し、海上交通が発達していない時代にそれは無理だろうという説があり、このことが改竄説を補強すると考えられるかも知れない。

これに関連して「4-5世紀に、倭が朝鮮半島北部において影響力を持っていたか」についての私見を述べる。


1この「倭」を現在の「日本」と等置するのは妥当でない

2好太王碑自体が現在中華人民共和国領にあることから考えても、高句麗を朝鮮の王国と考えるのも無理があり、満洲から朝鮮半島北部にかけての広い王国である (時代によって版図(はんと)は異なる)

同様に「倭」も朝鮮南部から九州北部の両方を支配していた王国である可能性が高い

朝鮮の正規の史書「三国史記」や「三国遺事」によれば、 高句麗、新羅、百済に対する倭の脅威は非常に大きく、国境で常に紛争を起こしている

このことは、倭が朝鮮南部に根拠を持っていたと考えないと理解できない

この倭が、朝鮮・対島海峡の両側に領土を持っていたとして、日本列島から朝鮮半島に進出したのか、逆に朝鮮半島から日本列島に侵入したのかは興味深い話題であるが、韓国の一部で信じられているらしいが、百済滅亡(663年)後、百済王族が日本に来て天皇(天武天皇?)になった、ということは絶対にあり得ない。

3南北朝時代の中国の史書によると、倭の五王は執拗に南朝皇帝に朝鮮半島の諸王国(新羅・百済・任那(みまな)他)の王位を与えよと要求している

南朝皇帝は、倭王に新羅・任那の王位は認めたが、百済王位は認めない

それも道理で、南朝皇帝は百済王に百済の王位を認めていた

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