【日野智貴の多元王朝論】<第三回>倭の五王九州説
⑥倭の五王は九州
さて、『三国志』に続く史書、『宋書』には、有名な「倭の五王」が登場する。倭の五王は、応神(第15代)から雄略(第21代)の7人の天皇のうちのいずれかにあたると、従来言われている。
それを列記しよう。
(1)讃
- 履中(りちゅう 第17代)説 松下見林・志村[木貞]幹・新井白石・白鳥清・藤間生大・原島礼二
- 仁徳(にんとく 第16代)説 星野恒・吉田東伍・菅政友・久米邦武・那珂通世(なか-みちよ)・岩井大彗・池内宏・原勝郎・太田亮・坂本太郎・水野祐
- 履中もしくは仁徳説 津田左右吉・井上光貞・上田正昭
- 応神(第15代)説 前田直典
(2)珍
- 反正(はんぜい 第18代)説 前田直典以外
- 仁徳説 前田直典
(3)済
- 允恭(いんぎょう 第19代)説 異説なし
(4)興
- 安康(第20代)説 水野祐以外
- 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)説 水野祐
(5)武
- 雄略(第21代)説 異説なし
(水野祐は『梁書(りょうしょ)』の「弥」を(1)と(2)の間に入れこれを履中とする)
この内、前田・水野の両説は異色の説であり、孤立している。したがって、他は(2)~(5)については一定している。(1)の讃だけが各学者の意見が分裂しているのである。
さて、武が雄略に当たると言うのであれば、当然その4代前の讃は履中でなければならぬ。しかし、この比定には、重大な矛盾がある。
晋安帝の時、倭王賛有り梁書倭伝
(晋安帝、義熙九年)是歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず晋書安帝紀
によれば、讃(賛)は東晋の義熙九年(413)に既に朝貢している。宋書に登場する元嘉二年(425)まで、少なくとも足掛け13年は在位していたことになる。
さらに、次の珍は元嘉十五年(438)に貢献し、受号している(宋書文帝紀)。したがって、讃・珍の二代の在位年数の合計は少なくとも26年以上ということになる。
讃は義熙九年(413)以前の数年を加えなければならないだろうし、珍も次の済の貢献年次(443)までの何年かを加えねばならぬ可能性が充分にある。
ところが『日本書紀(やまとのふみ)』によれば、履中(六年)・反正(五年)の在位年数の合計(11年)は、先の最小年数(26年)の半分にも満たない。一般に「書紀」の在位年数は「実数値より多い」のであって、これは矛盾である。
そこで、讃=仁徳説が浮上するのである。だが、ここで新たな矛盾が生じる。
『宋書』では、珍は讃の弟である。一方、仁徳は履中・反正との関係は親子である。
それで両者が激しく論争をするのだが、外から見れば、問題はハッキリしている。どちらも矛盾している。どちらの説も成り立たぬ。
こうして、そもそも、「倭の五王」を「天皇家」に当てる試みは、正しかったのか?という問いに進まねばならないのだ。
さて、倭の五王のなかで、比定すべき天皇がもっとも確実だとされるのが「武」だ。ところが、「武」には奇妙な問題がある。『宋書』の次の『南斉書』『梁書』にも「武」が登場する。
建元元年(479)進めて新たに使持節都督、倭・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・加羅・秦韓六国(りっこく)諸軍事、安東大将軍、倭王武に除し、号して鎮東大将軍と為す南斉書倭国伝
(天覧元年、502)鎮東大将軍倭王武、進めて征東将軍と号せしむ梁書武帝紀
日本書紀に依れば雄略の治世は456-779だから、梁書の「武」は雄略の治世をはるかにオーバーしてしまう。
502年といえば、『日本書紀』なら雄略より4代あとの武烈の治世であり、「武」は雄略-清寧(せいねい)-顕宗(けんそう)-仁賢(にんけん)-武烈の各治世にまたがっている。
このような事実が、「武」と雄略は同一人物でないことをハッキリ示している。(さらに、「稲荷山鉄剣銘文」とも矛盾があるが、後述する)
さて、「倭の五王」問題の根本は名前である。中国風の一字名だ。一般にこのように解説されている。
- 倭国側は記紀のように、倭名を表音表記したもので書いた(或は口で述べた)
- 中国側はこのような長い漢字の連なりを、人名にふさわしからず、として、これを中国風の一字名に書き換えた。
- その際、倭国側の書いてきた(或は口で述べた)「長たらしい名前」の一部を切り取るという手法を用いた。
- その際、中国側であやまって文字を書き換えたり、同じ意味の別字に書き換えたりした。(伝写の誤りも含む)
これは本当だろうか。『宋書』の夷蛮伝には数多くの夷蛮の人名が載っているが、それが3字だろうと4字だろうと、7字だろうと、原音のまま表音表記されている。
これは、『南斉書』『梁書』も変わらない。
『魏志倭人伝』も倭の女王の名は「卑弥呼」と記されており、一字を勝手に切り取って載せると言うことはしていない。後の『隋書』も同じだ(「多利思北孤(たりしほこ)」)。
では、一字名はどこから生まれたのか。百済(くだら)伝・高句麗(こうくり)伝をみれば、その王達は「余映」「高璉」などの中国名を名乗っている。
これらは自ら中国風の名を名乗ってきたのだ。(いわゆる「五胡」も、中国の文化を受容するにつれ、中国風の名称を用いるようになっていった)「倭の五王」もその例である。
宋書には倭王武の上表文が、長文引用されている。この中で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とある。
従来これを「近畿を中心とした倭国版の中華思想のあらわれ」と見なした。だが、これはふさわしくない。
倭王武の上表文にあらわれるとおり、倭王は、中国(南朝)の臣下として、厳にその立場を主張している。
当然、自らを「東夷」の一角におき、東夷の王として中国の天子の威徳が及ぶ範囲を、広げてきた、と倭王武は語っている。
その「海北平らぐこと・・・」だが、「神功皇后紀」や神話のように『古事記』や『日本書紀』は「朝鮮」を「海西」としている。
したがって、倭の五王の居城は九州にあったと見なすのが、最も自然である。
⑦邪馬台国と倭の五王の連続性
貴む可(べ)き哉(かな)、仁賢(じんけん)の化(か)や。然(しか)して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故(ゆえ)に孔子、道の行われざるを悼(いた)み、設(も)し海に浮かば、九夷に居(お)らんと欲(ほっ)す。以(ゆえ)有る也(か)。夫(そ)れ、楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為(な)す。歳時を以(もっ)て来献す、と云う。漢書、地理志、燕地
最後の一文だけが、あまりに有名だが、全体としては、このような文脈である。
最初に「仁賢」と言っているのは、「箕子(きし)」である。この直前の部分で、班固は朝鮮半島に箕子が赴(おもむ)き、仁義礼を広めたのだ、と語っている。それを受けて、「そのおかげで、東夷は柔順で他の夷蛮とはその点で異なるのだ」と言っているのである。
「だから、孔子が中国国内で礼の道が行われないのを悼(いた)んで、海に浮かんで九夷の住む地に行きたいと思ったのだ、というのには理由があるのだ。そもそも、楽浪海中には、倭人がいて…」これが文脈である。
「孔子が海を渡って九夷の住む地に行きたいと語った」という説話は、『論語』にも見える。少なくとも漢代には周知の説話だったはずである。
班固はその説話を踏まえて、孔子がそう思った理由を推察している。
それが「楽浪海中に倭人有り」である。ここから明らかなように、「孔子は朝鮮半島の先の海中に倭人が居たことを知っていた」と、少なくとも班固は思っているのである。
同じ漢代の『論衡(ろんこう)』に次の一文がある。
周の時、天下太平、越裳(えっしょう)白雉(はくち)を献じ、倭人鬯草(ちょうそう)を貢す。白雉を食し、鬯草を服するも、凶を除く能(あた)わず。論衡、儒増
著者王充は班固と同時代(5つ年上)の人物である。
彼は、『論衡』において、儒家としての彼の主張を表現している。彼の主張はこうだ。
「周は白雉や鬯草の貢献を受け、それを使用した(白雉・鬯草ともに、吉祥を招く縁起物)にもかかわらず、凶(=春秋戦国を経た、滅亡)を避けられなかった。(非合理的な儀式や迷信に根拠は無かったのだ)」儒家得意の合理主義がここに現れている。
孔子は、周王朝の最中に居たから、ここまで、痛烈な批判は出来なかったが、漢において王充はそれを行ったのである。
このような文脈に現れる「倭人」は、周の時代に「貢献」したのだという。
このとき、王充にとって、「周代の倭人貢献」は、周知の事実だった、と見なすほか無い。
なぜなら、そうでなければ、ここで王充が最も語りたい「周の儀礼主義批判」は、空振りに終わってしまうのである。
当然、王充は、同じ漢代の読者にとっても「周代の倭人貢献」が常識的な説話であることを知っていた。
このように見る時、その5つ年下の班固が、語る「楽浪(らくろう)海中」の「倭人」は、王充の語る「倭人」に等しいという、当たり前の事実が判明するのである。ここで、班固の文脈を振りかえろう。
「だから、孔子が中国国内で礼の道が行われないのを悼んで、海に浮かんで九夷の住む地に行きたいと思ったのだ、というのには理由があるのだ。そもそも、楽浪海中には、倭人がいて、…(周の時に)来献したのだというのである」
考えても見よう。『漢書』の「倭人貢献」が、漢代の出来事ならば、最後に「と云う」で結ぶことなどありえない。
これは、「倭人貢献」が漢代の事実を指したものではなく、それ以前を指したものだと言うことを示唆する。
さて、王充と班固は後漢の人物である。王充は建武三年(27)の生まれ、班固は建武八年(32)の生まれである。
ちょうど彼らの生きた時代、それも20代後半から30代にかけて、洛陽で話題になったのが、「倭人」だった。
建武中元二年(57)、倭奴国、奉貢朝賀す。…光武、賜(たま)うに印綬(いんじゅ)を以てす。後漢書、倭伝
「朝賀」とは、「朝廷の儀礼に参加し、礼を尽くす」という意味であるから、倭人は洛陽に来ったのである。
そして、華々しく金印を授与された。当然、光武帝側にとっても、一大イベントだったはずだ。ちょうどその頃、班固も王充も洛陽にいた。「太学」に学んでいた最中だったのである。従って、班固が、
楽浪海中に倭人有り。
といい、王充が、
倭人鬯草を貢す。
と言った時、「直接的」には、この「金印の倭人」をイメージしているのである。
少なくとも、漢代の知識人にとっては、「周代の倭人」と「後漢代の倭人」は同一のものと見なされている。
倭人は帯方の東南大海の中に在(あ)り。山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。三国志、魏志倭人伝
これが『魏志』の倭人伝の冒頭部分である。
『三国志』の「今」が晋の時代(陳寿の三国志執筆時代)を指していることは言うまでも無い。
ここで、「漢の時朝見する者有り」と言っているのは、当然、後漢代の遣使である。
『後漢書』の記述は、『三国志』を受けてのものである。当然、『三国志』の倭と『後漢書』の倭は同一だ、といっているのである。
後漢のころに朝貢した倭、それは当然「博多湾岸」のものである。「金印」がその最大の証拠だ。
このことから、「邪馬台国は博多湾岸にあり」という結論になる。
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