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2013年4月 7日 (日)

【日野智貴の多元王朝論】<第三回>倭の五王九州説

⑥倭の五王は九州

さて、『三国志』に続く史書、『宋書』には、有名な「倭の五王」が登場する。倭の五王は、応神(第15代)から雄略(第21代)の7人の天皇のうちのいずれかにあたると、従来言われている。

それを列記しよう。

(1)讃

  1. 履中(りちゅう 第17代)説 松下見林・志村[木貞]幹・新井白石・白鳥清・藤間生大・原島礼二
  2. 仁徳(にんとく 第16代)説 星野恒・吉田東伍・菅政友・久米邦武・那珂通世(なか-みちよ)・岩井大彗・池内宏・原勝郎・太田亮・坂本太郎・水野祐
  3. 履中もしくは仁徳説 津田左右吉・井上光貞・上田正昭
  4. 応神(第15代)説 前田直典

(2)珍

  1. 反正(はんぜい 第18代)説 前田直典以外
  2. 仁徳説 前田直典

(3)済

  1. 允恭(いんぎょう 第19代)説 異説なし

(4)興

  1. 安康(第20代)説 水野祐以外
  2. 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)説 水野祐

(5)武

  1. 雄略(第21代)説 異説なし

(水野祐は『梁書(りょうしょ)』の「弥」を(1)と(2)の間に入れこれを履中とする)

この内、前田・水野の両説は異色の説であり、孤立している。したがって、他は(2)~(5)については一定している。(1)の讃だけが各学者の意見が分裂しているのである。

さて、武が雄略に当たると言うのであれば、当然その4代前の讃は履中でなければならぬ。しかし、この比定には、重大な矛盾がある。

晋安帝の時、倭王賛有り梁書倭伝

(晋安帝、義熙九年)是歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず晋書安帝紀

によれば、讃(賛)は東晋の義熙九年(413)に既に朝貢している。宋書に登場する元嘉二年(425)まで、少なくとも足掛け13年は在位していたことになる。

さらに、次の珍は元嘉十五年(438)に貢献し、受号している(宋書文帝紀)。したがって、讃・珍の二代の在位年数の合計は少なくとも26年以上ということになる。

讃は義熙九年(413)以前の数年を加えなければならないだろうし、珍も次の済の貢献年次(443)までの何年かを加えねばならぬ可能性が充分にある。

ところが『日本書紀(やまとのふみ)』によれば、履中(六年)・反正(五年)の在位年数の合計(11年)は、先の最小年数(26年)の半分にも満たない。一般に「書紀」の在位年数は「実数値より多い」のであって、これは矛盾である。

そこで、讃=仁徳説が浮上するのである。だが、ここで新たな矛盾が生じる。

『宋書』では、珍は讃の弟である。一方、仁徳は履中・反正との関係は親子である。

それで両者が激しく論争をするのだが、外から見れば、問題はハッキリしている。どちらも矛盾している。どちらの説も成り立たぬ。

こうして、そもそも、「倭の五王」を「天皇家」に当てる試みは、正しかったのか?という問いに進まねばならないのだ。

さて、倭の五王のなかで、比定すべき天皇がもっとも確実だとされるのが「武」だ。ところが、「武」には奇妙な問題がある。『宋書』の次の『南斉書』『梁書』にも「武」が登場する。

建元元年(479)進めて新たに使持節都督、倭・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・加羅・秦韓六国(りっこく)諸軍事、安東大将軍、倭王武に除し、号して鎮東大将軍と為す南斉書倭国伝

(天覧元年、502)鎮東大将軍倭王武、進めて征東将軍と号せしむ梁書武帝紀

日本書紀に依れば雄略の治世は456-779だから、梁書の「武」は雄略の治世をはるかにオーバーしてしまう。

502年といえば、『日本書紀』なら雄略より4代あとの武烈の治世であり、「武」は雄略-清寧(せいねい)-顕宗(けんそう)-仁賢(にんけん)-武烈の各治世にまたがっている。

このような事実が、「武」と雄略は同一人物でないことをハッキリ示している。(さらに、「稲荷山鉄剣銘文」とも矛盾があるが、後述する)


さて、「倭の五王」問題の根本は名前である。中国風の一字名だ。一般にこのように解説されている。

  1. 倭国側は記紀のように、倭名を表音表記したもので書いた(或は口で述べた)
  2. 中国側はこのような長い漢字の連なりを、人名にふさわしからず、として、これを中国風の一字名に書き換えた。
  3. その際、倭国側の書いてきた(或は口で述べた)「長たらしい名前」の一部を切り取るという手法を用いた。
  4. その際、中国側であやまって文字を書き換えたり、同じ意味の別字に書き換えたりした。(伝写の誤りも含む)

これは本当だろうか。『宋書』の夷蛮伝には数多くの夷蛮の人名が載っているが、それが3字だろうと4字だろうと、7字だろうと、原音のまま表音表記されている。

これは、『南斉書』『梁書』も変わらない。

『魏志倭人伝』も倭の女王の名は「卑弥呼」と記されており、一字を勝手に切り取って載せると言うことはしていない。後の『隋書』も同じだ(「多利思北孤(たりしほこ)」)。

では、一字名はどこから生まれたのか。百済(くだら)伝・高句麗(こうくり)伝をみれば、その王達は「余映」「高璉」などの中国名を名乗っている。

これらは自ら中国風の名を名乗ってきたのだ。(いわゆる「五胡」も、中国の文化を受容するにつれ、中国風の名称を用いるようになっていった)「倭の五王」もその例である。

宋書には倭王武の上表文が、長文引用されている。この中で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とある。

従来これを「近畿を中心とした倭国版の中華思想のあらわれ」と見なした。だが、これはふさわしくない。

倭王武の上表文にあらわれるとおり、倭王は、中国(南朝)の臣下として、厳にその立場を主張している。

当然、自らを「東夷」の一角におき、東夷の王として中国の天子の威徳が及ぶ範囲を、広げてきた、と倭王武は語っている。

その「海北平らぐこと・・・」だが、「神功皇后紀」や神話のように『古事記』や『日本書紀』は「朝鮮」を「海西」としている。

したがって、倭の五王の居城は九州にあったと見なすのが、最も自然である。


⑦邪馬台国と倭の五王の連続性
貴む可(べ)き哉(かな)、仁賢(じんけん)の化(か)や。然(しか)して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故(ゆえ)に孔子、道の行われざるを悼(いた)み、設(も)し海に浮かば、九夷に居(お)らんと欲(ほっ)す。以(ゆえ)有る也(か)。夫(そ)れ、楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為(な)す。歳時を以(もっ)て来献す、と云う。漢書、地理志、燕地

最後の一文だけが、あまりに有名だが、全体としては、このような文脈である。

最初に「仁賢」と言っているのは、「箕子(きし)」である。この直前の部分で、班固は朝鮮半島に箕子が赴(おもむ)き、仁義礼を広めたのだ、と語っている。それを受けて、「そのおかげで、東夷は柔順で他の夷蛮とはその点で異なるのだ」と言っているのである。

「だから、孔子が中国国内で礼の道が行われないのを悼(いた)んで、海に浮かんで九夷の住む地に行きたいと思ったのだ、というのには理由があるのだ。そもそも、楽浪海中には、倭人がいて…」これが文脈である。

「孔子が海を渡って九夷の住む地に行きたいと語った」という説話は、『論語』にも見える。少なくとも漢代には周知の説話だったはずである。

班固はその説話を踏まえて、孔子がそう思った理由を推察している。

それが「楽浪海中に倭人有り」である。ここから明らかなように、「孔子は朝鮮半島の先の海中に倭人が居たことを知っていた」と、少なくとも班固は思っているのである。

同じ漢代の『論衡(ろんこう)』に次の一文がある。

周の時、天下太平、越裳(えっしょう)白雉(はくち)を献じ、倭人鬯草(ちょうそう)を貢す。白雉を食し、鬯草を服するも、凶を除く能(あた)わず。論衡、儒増

著者王充は班固と同時代(5つ年上)の人物である。

彼は、『論衡』において、儒家としての彼の主張を表現している。彼の主張はこうだ。

「周は白雉や鬯草の貢献を受け、それを使用した(白雉・鬯草ともに、吉祥を招く縁起物)にもかかわらず、凶(=春秋戦国を経た、滅亡)を避けられなかった。(非合理的な儀式や迷信に根拠は無かったのだ)」儒家得意の合理主義がここに現れている。

孔子は、周王朝の最中に居たから、ここまで、痛烈な批判は出来なかったが、漢において王充はそれを行ったのである。

このような文脈に現れる「倭人」は、周の時代に「貢献」したのだという。

このとき、王充にとって、「周代の倭人貢献」は、周知の事実だった、と見なすほか無い。

なぜなら、そうでなければ、ここで王充が最も語りたい「周の儀礼主義批判」は、空振りに終わってしまうのである。

当然、王充は、同じ漢代の読者にとっても「周代の倭人貢献」が常識的な説話であることを知っていた。

このように見る時、その5つ年下の班固が、語る「楽浪(らくろう)海中」の「倭人」は、王充の語る「倭人」に等しいという、当たり前の事実が判明するのである。ここで、班固の文脈を振りかえろう。

「だから、孔子が中国国内で礼の道が行われないのを悼んで、海に浮かんで九夷の住む地に行きたいと思ったのだ、というのには理由があるのだ。そもそも、楽浪海中には、倭人がいて、…(周の時に)来献したのだというのである」

考えても見よう。『漢書』の「倭人貢献」が、漢代の出来事ならば、最後に「と云う」で結ぶことなどありえない。

これは、「倭人貢献」が漢代の事実を指したものではなく、それ以前を指したものだと言うことを示唆する。

さて、王充と班固は後漢の人物である。王充は建武三年(27)の生まれ、班固は建武八年(32)の生まれである。

ちょうど彼らの生きた時代、それも20代後半から30代にかけて、洛陽で話題になったのが、「倭人」だった。

 建武中元二年(57)、倭奴国、奉貢朝賀す。…光武、賜(たま)うに印綬(いんじゅ)を以てす。後漢書、倭伝

「朝賀」とは、「朝廷の儀礼に参加し、礼を尽くす」という意味であるから、倭人は洛陽に来ったのである。

そして、華々しく金印を授与された。当然、光武帝側にとっても、一大イベントだったはずだ。ちょうどその頃、班固も王充も洛陽にいた。「太学」に学んでいた最中だったのである。従って、班固が、

楽浪海中に倭人有り。

といい、王充が、

倭人鬯草を貢す。

と言った時、「直接的」には、この「金印の倭人」をイメージしているのである。

少なくとも、漢代の知識人にとっては、「周代の倭人」と「後漢代の倭人」は同一のものと見なされている。

 倭人は帯方の東南大海の中に在(あ)り。山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。三国志、魏志倭人伝

これが『魏志』の倭人伝の冒頭部分である。

『三国志』の「今」が晋の時代(陳寿の三国志執筆時代)を指していることは言うまでも無い。

ここで、「漢の時朝見する者有り」と言っているのは、当然、後漢代の遣使である。

『後漢書』の記述は、『三国志』を受けてのものである。当然、『三国志』の倭と『後漢書』の倭は同一だ、といっているのである。

後漢のころに朝貢した倭、それは当然「博多湾岸」のものである。「金印」がその最大の証拠だ。

このことから、「邪馬台国は博多湾岸にあり」という結論になる。

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