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2013年4月 7日 (日)

【日野智貴の多元王朝論】<第二回>邪馬台国・邪馬壹国九州説

④部分と全体の論理
 倭人伝には二つの「里程」が存在する。一は、帯方郡治から倭国の首都に至る間の各「区間里程」である。二は、同じ距離の「総里程」である。したがって当然、「区間里程の総和は総里程」である。

では、その両者(区間里程と総里程)を挙げよう。

A)区間里程

1.七千余里  帯方郡治→狗邪韓国
2.千余里   狗邪韓国→対海国
3.方四百余里 対海国の面積
4.千余里   対海国→一大国
5.方三百里  一大国の面積
6.千余里   一大国→末盧(まつろ)
7.五百余里  末盧国→伊都国
8.百里    伊都国→奴(な)国(傍線行程)
9.百里    伊都国→不弥(ふみ)
B)総里程

  1. 一万二千余里 帯方郡治→女王国

C)日程

  1. 水行二十日 不弥国→投馬国(傍線行程)
  2. 水行十日・陸行一月 帯方郡治→女王の都する所

さて、まずC)の「日程」は、「区間里程」には含まれない(従来、C-(2)を投馬国→邪馬壹国の「里程」とする)。

しかし、当然ながら、この記事は日程を示すものであり、「里程」ではない。「総里程」が判明している以上、「区間里程」の一部を「日程」で示すことなど通常考えられぬ。

これは自明の道理である。

さて、「三国志」の用法を検証すると、以下のことがわかる。「至」の用法である。

a)進行を示す先行動詞(「行」など)+「至」

行きて曲阿に至る。呉志三

諸軍数道並行して漢中に至る。魏志二十八

これが通常の形である。

b)(先行動詞なし)「至」

東、海に至り、西、河に至り、南、穆陵に至り、北、無棣に至る。魏志一

このような場合、一つの基点をもとに、そこからの位置付けを示している。(四至)以上のような「至」の用法をかんがみるとき、A-(8)の記事は、b)の用例であることがわかる。

東南、奴国に至る、百里。魏志倭人伝

つまり、この(8)の記事は、基点である「伊都国」からの「奴国」の位置付けを示しているものであり、「帯方郡治→邪馬壹国の主線行路」ではないのである。(C-(1)の「投馬国」も同様に「傍線行路」)

以上によって、その区間里程を計算してみると、(1)(2)(4)(6)(7)(9)の合計は一万六百里。B)の一万二千里には、千四百里足りない。

ここで、(3)と(5)が注目される。これは従来、面積であるから「里程」に含まぬ、と見なされてきたものである。

それが、盲点だったのである。当然、魏使はこの「対馬」と「壱岐」、即ち「対海国」と「一大国」を通過したのである。この場合、「半周通過」が自然である。

そのように計算した場合、対海国の半周=八百里、一大国の半周=六百里であり、計千四百里である。これを先の一万六百里と合わせて、ちょうど一万二千里となる。

ここで「区間里程の総和が総里程」となったわけである。

以上の結果は次の結論を導く。「不弥国=邪馬壹国の玄関」である。

なぜなら、不弥国で丁度、里程記事が終わっているからである。即ち、これは次の命題をうむ。

「不弥国は邪馬壹国の一部」と。それでは、邪馬壹国(邪馬台国)の中心地はどこか。そこから、次の論証は始まる。

⑤短里の証明
魏志倭人伝の中で最も重要な位置を占め、最も軽視されてきたもの、それは「里程」である。

「郡より倭に至るには…」で始まり、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所」に至るまで、方角と里程を順次示している。

『三国志』において、このような記載は他にない。このような実態をもつ魏志倭人伝の「里程」記事が、これまで軽視されてきたのは、「魏志倭人伝の規定記事には誇張がある」と従来言われてきた為だ。

なぜか。それは、魏志倭人伝に見える「里程値」が、われわれの通常知る「里」単位では、あまりに距離が長過ぎる為である。

魏志倭人伝には、帯方郡治から倭国の首都までの距離が、「万二千里」とある。これは、われわれの常識的な里(漢の「里」なら一里=約435メートル)で言えば、5,220キロであり、とても日本列島には収まらない(記述どおりに主に南へ進路をとった場合)。

この為に、「倭人伝の里程は信用できぬ」と従来言われてきた。一方では、「方角」が信用できぬと言われてきたのである(南を東に改定し、近畿を目指す論者)。

しかし、「魏志」に記載されている「里」を詳細に検討してみると、以下のことが言える。

?韓伝によれば、韓地の面積は「方四千里」である。これは、「方~里」の用法から、「一辺四千里」の四角形に外接する面積」である。朝鮮半島の東西幅は300~360キロであり、これが「四千里」であるという。

これは、「漢の里」なら「約7~800里」であるべきであり、魏志の記述はその5~6倍ある。(韓地の東西幅は、朝鮮半島の東西幅と同じ)

通例、魏志倭人伝の里程には約5倍の誇張がある、とされているが、ちょうど、韓伝の記述も同じ「里」単位で書かれていると見なせる。ここで、以下のことが注目される。

  1. 韓地は、漢代においてすでに漢の四郡の置かれた土地であり、陳寿の時代(魏→晋)においても、周知の土地である。ここに、5倍もの誇張を書くべきところではない。
  2. 韓地の北境は帯方郡と接している。すなわち、韓地の北境=中国直轄領の南境といえる。中国自身の直轄領に対して5倍もの誇張を書くべきいわれはない。
  3. 倭人伝において、「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴るに、乍ち南し乍ち東し、其の北岸狗邪韓国に至る、七千余里」の記述は、帯方郡治を起点とするから、「韓国」を含む表現である。

    したがって、この七千余里も、「中国国内と韓国」ともに同じ「里」単位で示したものと見なさなくてはならない。
  4. 同様に、「郡より女王国に至る、万二千余里」も、「韓地内」を含むから、ともに同じ「里」単位で示したと見なさざるを得ない。
  5. 魏志全体の「里」単位を抽出すると、すべて(その実距離が判明するもの)、韓伝、倭人伝のそれと同一の「里」単位であると見なせる。

以上のことから、「魏志」においては、「漢の里」の約5~6分の1の「里」単位を使用してたことがわかる。「短里」である。

朝鮮半島の東西幅(300~360キロ)=四千里であるから、この「短里」は一里=75~90メートルである。

また、倭人伝において、壱岐に当たることが確実視されている「一大国」の面積が「方三百里」としているから、一里は75メートルに近い値であると考えられる。

この短里は、「魏志」のほか、「江表伝」「魏略」「海賦」等の魏晋朝の文献にも認められ、魏晋朝において使用されていた、「里」単位であることは疑いない。

以上によって、魏志倭人伝における「里程値」が決して誇張などでなく、当時用いられた「短里」による「実定値」であることが判明する。

こうしてみると、どのように考えても「邪馬壹国=九州」とせざるを得ないのである。

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