取り違えられた「前期難波宮」――本来の「難波宮」は尼崎にあった!
九州王朝説論者の間で、「前期難波宮は、九州王朝の副都である」であるという説が広まっている。
しかし、私は、かつてから、この説に疑問を持っていた。
実は、小学生のころから、僭越ながら、古賀達也氏の「前期難波宮は七世紀半ばの遺構であり、倭国の天子が住んでいた」という説について、「勇み足」的なものを感じていたのである。
古田武彦先生も、「前期難波宮に、九州王朝の天子が住んでいたという、考古学的証拠はあるのか?」と、疑問を持っておられた。
だが、先ほど読んだ山本先生(とうやん)の論考により、疑問は氷解した。
古賀達也先生だけでなく、多くの学者・研究者は「難波宮」を取り違えているのだ。
神武天皇の時代から仁徳天皇の時代まで「難波津」は存在しないのであり、「難波」とは尼崎に存在した 。(九州王朝の場合は「博多」の事と思われる――古田武彦「大化改新批判」参照、私は「乙巳の変」は「博多・難波」であったと考える)
山本先生の論証が正しいと、武庫庄遺跡の大型掘立柱建物が、実は弥生時代の遺跡ではなく、本来の「前期難波宮」であったということになる。
すると、今の考古学者が「前期難波宮」と呼んでいるものは、なんや?という話になる。
それは、簡単である。
いわゆる「前期難波宮」は、「首都」でも「宮殿」でもなかったのだ。
混同を防ぐために、私はあえて「(いわゆる)前期難波宮はなかった」という表現を使い、「尼崎難波宮」が九州王朝の副都であった、と主張したい。
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