« 実は空前の大熱狂だった映画『悪夢ちゃん』 | トップページ | 満洲国愛新覚羅溥任親王殿下が薨去/過去には「溥儀研究者との訴訟」も »

2014年7月 9日 (水)

故宮博物院から古代中国の科学技術の変遷を考える

はい、題名に書きました通り、故宮博物院が世界に誇る収蔵品から、古代中国の科学技術の変遷を考えよう、という趣旨であります。

「台北政府」立故宮博物院は、中学時代に「蒋介石が中国から、色々なお宝を持ってきたんや!中国にも故宮博物館はあるけど、台湾の方がええ奴が集まっとるぞ!」と、右寄りの教師から説明がありました。

で、故宮博物院のHPを見ましたが、主に観光客向けの内容で、現地まで行かないとわからないことも多いようです。(^_^;)

古代青銅器の輝き-中国歴代銅器展

展覧の説明
 
中国の青銅器時代は夏の晩期(約紀元前17世紀初)から始まり、殷・西周・東周を経て、前後一千五百年ほど続きました。秦・漢以後は、鉄器が使用されるようになりましたが、銅器はやはり従来のしきたりのまま使われ、変わることはありませんでした。


当時、貴重な青銅器は貴族のみ、使うことができました。所謂、「国の大事は祀と戎に在り」なのです。青銅は兵器や楽器のほかは、主に祭祀用の容器に鋳造され、供物を入れて祖先を祭り、家族の末永い繁栄を祈りました。また、祭祀を行う際に置かれる礼器の数の多さが、貴族の身分と階級を象徴したのです。銅器は殷・周の貴族社会の中で最も重要な礼器だったのです。


殷・周の時代(1600-221B.C.E)は、中華文化を確立する重要な時代でした。政治面では、政教一致により、礼教と人文意識に目覚めました。物質面では、青銅鋳造の発達により、礼器・兵器用の新紀元が切り開かれ、また工芸技術の突破は、様々な産業の興隆を促しました。精神面では、国の大事である「祀」と「戎」について、銅器の形を通して、神や祖先に対する畏敬の念と心霊との疎通を託しました。また「銘文」を刻み、当時の祭饗、征伐、恩賞、冊命などの情況を記録しました。


青銅文明は鐘・鼎・彝器の「礼と楽」でほめ讃えられ、功をなしとげ祖先を祭る「祀と戎」で賞賛されました。周人が鋳造し紀銘した「其命維新」および「郁郁周文」には、東周の絢爛と賑わう新段階から、秦・漢の統一に至るまで、銅器は次第に礼制の中心から退いてはいくものの、むしろ一種の典型的なものへと転化し、更に深層な思想や文化の薀蓄も加わり、中華文化の美は、この一つ一つの器物の間にあって、広大且つ精緻を尽くし、きわめて高明に中庸を語っているのです。

う~ん、「科学技術の変遷」という観点からすると、キーワードは何なのだろうか?

「殷・周の時代(1600-221B.C.E)は、中華文化を確立する重要な時代でした。政治面では、政教一致により、礼教と人文意識に目覚めました。物質面では、青銅鋳造の発達により、礼器・兵器用の新紀元が切り開かれ、また工芸技術の突破は、様々な産業の興隆を促しました」とかいてある。

では、この「青銅鋳造の発達」を、調べてみよう!

とりあえず、wikipediaの「中国の青銅器」の「製作技法」の部分を見てみる。(無論、wikipediaの内容は、古代史研究の出典には利用できないが、参考程度にはなるだろう)

中国各地の遺跡から青銅器の鋳造に用いられた土型が見つかっており、土型鋳造であったことは確かだが、原型の製作方法、研磨方法など、製造工程の詳細については同時代の記録がないため、正確なことはわかっていない。細かい文様を正確に鋳造する方法は、現代の技術でも十分には解明されていない。黄河流域の黄砂は、粒が細かく均質で、青銅器の原型製作には適していた。青銅器の中には、幅1ミリ程度の沈線を、タガネ等で彫るのではなくすべて鋳造で正確に表したものがある。青銅器の凹部は、原型製作の段階では、逆に凸部であった。つまり、幅1ミリの沈線を鋳造するための原型には、幅1ミリの土製の壁が立ち上がっていたことになり、原型製作には高度の熟練を要したことと推定される。現在、博物館や美術館で展示されている青銅器は古色を帯び、緑青色を呈しているが、製作当時の青銅器は器表が入念に研磨され、燦然と輝くものであった。[38]

前述のとおり、青銅は銅と錫の合金であるが、錫の含有割合は器によってさまざまである。銅、錫以外に鉛を比較的多く含むものと、鉛をほとんど含まないものがある。こうした原料の配合割合が何によって決まったかも定かではない。青銅器を鋳造する際には外型と中型を作って、この両者の隙間に溶けた銅を流し込む。したがって、この隙間の広さが完成品の銅の厚みとなる。中国古代青銅器の銅厚はきわめて薄く、2ミリ程度のものもあり、大型の器でも5ミリを超えるものはまれである。つまり、鋳造時の外型と中型の隙間は数ミリしかないことになり、この狭い空間に流し込めるような流動性の高い溶銅が必要であった。前述の銅、錫、鉛の配合割合は、合金の流動性をより高める方向で工夫されたものと推定される。[39]

この記事の出典は、「廣川守「殷周の青銅器」『館蔵 殷周の青銅器』(鑑賞シリーズ10)、根津美術館、2009、pp.62 – 67」である、という。

キーワードは、「銅、錫、鉛の配合割合」と「合金の流動性」である。

今後の研究課題だろう。

« 実は空前の大熱狂だった映画『悪夢ちゃん』 | トップページ | 満洲国愛新覚羅溥任親王殿下が薨去/過去には「溥儀研究者との訴訟」も »

学問・資格」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

趣味」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 故宮博物院から古代中国の科学技術の変遷を考える:

« 実は空前の大熱狂だった映画『悪夢ちゃん』 | トップページ | 満洲国愛新覚羅溥任親王殿下が薨去/過去には「溥儀研究者との訴訟」も »

フォト
無料ブログはココログ

他のアカウント