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2016年9月12日 (月)

『古事記と現代の預言』(谷口雅春先生)を読む(3)


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「高天原とは、実相世界の事である」という言葉の意味を、もう少し詳しく、掘り下げてみましょう。

「高」というのは、これは高く伸びる象徴であり、それを線にあらわすと、縦の線であります。十字を書くと縦の線は時間の象徴であり、生命(いのち)の象徴であります。我々の生命は、下からいうと、父、祖父、曾祖父と……ずーっと上がって行って遂に神に達する。上からいうならば、神から始まって、ずーっと下へ天下って来る。これは生命であります。上に行ったり、下へ降ったりするのは「縦の線」で象徴できるのであります。だから、生命及び時間を縦の線で象徴します。縦の線は「生長の家」の「生」に当たるのであります。縦に生(の)びるのが「生」であります。「生長の家」の古い誌友でも、時時(ときどき)「成長の家」とお書きになる人がありますが、「生長」と書いて頂きたい。大体この「成長」という意味は、これは大人になるという意味に主として使われる熟語であります。で、大人になり成人したら、それ以上もう成長しなくなるから、それでは無限に生(の)びる意味をあらわすのには不適当ですから私たちは「生長の家」と「生」を使うのであります。

私たちが「神様、ご先祖さま」という時には、別に、自分の横にご先祖様がいるようには、感じない。なんとなく、感覚的にですけど、ご先祖様と自分とは、縦のつながりであるかのように感じます。

生命のつながりは、縦の線で象徴できるわけですね。そして、その大本は、神様であります。それを象徴的に表した言葉が、「高」の字である、という風に、『古事記』神話には一言一句に意味があり、そして、それに最もふさわしい漢字を充ててあるのです。

太安万侶は、『古事記』の内容をも地に表すにあたって、大変苦労したという話が『古事記』の序文には書いてありますが、雅春先生はその『古事記』の真義を言霊的解釈によって解き明かしたわけです。

さて、話を戻すと、生命及び時間は、縦の線で象徴できる。

では、「横」とは何か、というと、それは、その生命から出た心が展開して空間を広げる――生長の家においては、「唯心所現」の真理と説くところのものが、「横」である。

この、縦であり、横であるところの空間、そこで時間が刻々と流れているわけですが、その一刻、一刻の瞬間毎(ごと)に、私達は生命(いのち)の炎を燃やし続けているわけです。

縦の線は生命であり、時間を表しているのであります。縦の線を上へ遡ると高くなりますから、それは「高天原」の「高」を象徴しているのです。

そして、「横」を表しているのが、「原」の字なのです。

横の線は「原」を象徴しています。皆さんが野原をずーっと見渡すと横広がりに広がっているように見えるでしょう。だから横線を以て空間を象徴します。

私達は、常に神様の生命(いのち)の炎を燃やしているわけですが、それが一瞬、一瞬と時間は経っていき、空間は新たな展開を見せていく。次々と、心の力で展開していくもの、それが空間です。


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それでは「天」とは何かといいますと、これは「縦横の交わり」によって表される、実相宇宙そのものなのです。

神の生命は高きところから縦に天降(あまくだ)って来ます。縦に、こう天降って来るところの神の生命(時間)と、それが横に展開するところの「原」なる空間と、言い換えれば「時間」と「空間」とが十字交叉(こうさ)して、そして「天球(あま)」の相(すがた)になっているのが宇宙であります。「あま」というのは「顕われる、円(まる)い」という意味です。天文学ではこれを「天球」というのです。「天球」は所謂(いわゆる)「宇宙」であって、「宇宙」は円いのです。「あま」である。日本人が「天球」を称して「天(あま)」といったのはまことに素晴らしい霊的直観である。

これは、縦と横とが交わって、十字架が扇風機のように激しく回転する、生長の家のマークの「光輪卍字」にも表される卐が激しく回転することによって球体のような姿を見せるのであります。

縦と横との陰陽両者が卐のごとく結合して回りだすと、それはもう、球体にしか見えないのであって、「あま」というと恰(あたか)もそこに静止空間としての球体があるように見えるけれども、「高天原」というのは「たか」と「はら」とが結びついて激しく動く、その激しい動きの中にも調和があって、その調和がとられた激しい動きを「あま」と表現しているのであり、それが「たかあまはら」であるのです。

これを、古田武彦先生が言われたように「たかあまばる」といっても、問題はない。「ばる」とは「張る」、心の力によって「拡張する」働きであって、それと、神からの「たか」の働きと陰陽調和して、綺麗(きれい)な円い「あま」となるわけです。

実相世界というと、そこは完全なる世界である、と、生長の家で教わるから、恰(あたか)もそれは静止した、静かな世界であるかのように思われる方もいますが、実際には、動にして静、時間を超越しているから「静」のように理解することもできるけど、それは、不断の「動」の働きを超越したところにある「静」であって、「たか」と「はら」又は「はる」の不断の働きの双方を内蔵した「あま」なのです。

これは何も、青二才の大学生である私が勝手に偉そうなことを言っているのではないのであって、神示にも書いてある真実です。

それでは、雅春先生の言霊的解釈に戻りましょう。

「ま」は「円い」とか「完(まった)い」とか「まこと」とかいう語にあらわれているように、「ま」というのは、皆「完全な」「円満な」というような意味を表す言葉であります。円満な心を「まごころ」などといいますね。「円く顕われている」のが天球であるから、これを「天(あま)」というのです。で、「あま」が転じて「天(あめ)」と読むこともある訳です。「マ」と「メ」とは同一のマ行でありますから、「マ」が音便で「メ」に転じて、「あめのみなかぬしのかみ」と読んだりいたします。この天球のことを「家」というのです。宇宙というのは「ウ冠」で、ウは家をあらわしております。それで「生長の家」というのは、時間と空間とが十字交叉(こうさ)して球状の家をなしている大宇宙という意味であります。その実相の大宇宙を「高天原」というのであります。

こうした『古事記』の真理を、端的に表したのが『禊祓之祝詞(みそぎはらいののりと)』です。

高天原(たかあまのはら)に神留(かむづま)り坐(ま)す神漏岐(かむろぎ)神漏美(かむろみ)の詔(みこと)を以(も)ちて、皇親(すめみおや)神伊邪那岐命(かむいざなぎのみこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(をど)の阿波岐原(あはぎはら)に禊祓(みそぎはら)ひ給(たま)ふ時に生(あ)れ坐(ま)せる祓戸(はらへど)の大神等、諸々(もろもろ)の枉事(まがこと)罪穢(つみけがれ)を祓へ給ひ清め給ふと申す事の由(よし)を天津神(あまつかみ)国津神(くにつかみ)八百万(やほよろづ)の神等共に天(あめ)の斑駒(ふちこま)の耳振立て聞召(きこし)めせと畏(かしこ)み畏(かしこ)みを白(まを)

『禊祓之祝詞』については、古田武彦先生も研究されていたと思いますが、歴史学の面からも興味深いので、また研究してみたいと思います。


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それでは、再び『古事記』の冒頭部分の解釈に戻ります。

『天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は、天之御中主神』とありますが、天地がまだ初発であるときに――「初発(はじめ)」というのは、必ずしも時間的流れの初めという意味では無いのでありまして、天地の根元の状態をいうのであります。その天地の根元の状態に於(お)いて、宇宙は「高天原」であって「高」と「原」と――「時間」と「空間」とが十字に結び合って、そして一つの球状宇宙を成しているというのであります。だから高天原とは大宇宙のことであります。『高天原に成りませる神の名(みな)は……』とありますが「成る」というのは、神様がお成り遊ばされるという意味にとり、高天原においで遊ばされたというふうに解釈する人もあるけれども、本当はそうじゃないのです。「なる」というのは鳴り響くという事です。『高天原に成りませる』というのは宇宙全体に鳴り響いておられたという意味で、その神様が、『天之御中主神』であると書かれているのです。天之御中主神は、宇宙の何処(どこ)にも遍満し、充ち満ちて、鳴り響いておられる神だというのであります。この『高天原に成りませる』とあるのは「成りませる」と現在活用で書かれていることに注意すべきです。神が宇宙遍満していられるのは永遠の現在なのであります。その遍満の神様が「天之御中主神」であります。

これについては、丁度(ちょうど)、生長の家総本山において天之御中主神を始めとする「造化の三神」を祀ることが、一昨年に決まりまして、それで去年の5月、生長の家総本山で谷口雅春先生の三十年祭があり、兵庫教区はちょうど、その日が団体参拝練成会で総本山へお参りする日だったので、兵庫教区青年会の人間の一人として、私も参列させていただいたのでありますが、その練成会で、当時総本山の総務だった楠本行孝先生が、「造化の三神」の説明をされたのであります。

余談になりますが、福岡教区教化部長の矢野俊一先生が、造化の三神の祭祀は雅春先生の悲願であった――と、行孝先生のお父様である楠本加美野先生から聞かされた、という話があるそうです。矢野先生自身に確認したわけではないのですが、いずれ確認してみたいと思います。ちなみに、矢野先生の息子の矢野裕大先生には、青年会の全国大会において、かな~りお世話になりました。ありがとうございます。

それで、話を戻しますと、この部分に関する話を、行孝先生が講話の中でされたのです。

イメージ 1
(写真:楠本行孝先生(左)と私(右)

練成会の講話は、録音・撮影禁止という決まりがあり、行孝先生のあの時の講話の正確な記録が手元にないので、なんとか、講話内容が分かるものはないのか、と調べておりましたら、ありました。

なんと、私のブログに、その時の行孝先生の講話の内容が、記されておりました。(笑)

ブログといっても、この公式ブログではなく、非公式ブログの一つですが、そこに「第370回生長の家総本山団体参拝練成会に参加」という記事があり、次のように行孝先生の講話内容が記されています。

「造化の三神を祀る理由について考えていると、楠本加美野先生が泣かれていた。理由を聞くと、『どうして今、造化の三神を祭祀されるのかが分かった。天之御中主神は中心帰一の神様である。今の生長の家は中心が明らかになっていない、中心帰一できていない。総裁の説く御教えが神意である、と考えて運動しなければいけない、ということだ。』」

「神の子は天之御中主神の理念を実践するために生きている。『生きている』ということは『中心帰一している』ということだ。」

「左側の唯物論である共産主義は崩壊した。資本主義も唯物論である。生長の家は資本主義を是としていない。これが大前提である。右の唯物論も左の唯物論も誤っている。生長の家はアメリカのような国が理想である、とは考えていない。」

「国際平和信仰運動とは、『国家間の平和』が運動の目的である。谷口雅春先生は『国家も生命体だ、命だ』と言われた。『国』と『国』が調和すること、これが大事である。」

「無限なる宇宙に神の御心が鳴り響いている。今も無限に鳴り響いているのが実相世界である。」

この、行孝先生の講話にもありますように、「今も無限に鳴り響いている」のが、実相世界なのであります。

「高天原に成りませる」というのは、現在進行形で天之御中主神が「今も無限に鳴り響いている」というわけで、『古事記』は実は、唯神実相の極めて深い真理を、最初の一行に端的に表していたわけなのです。


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実相の宇宙といいますのは、「宇宙」というのものがあって、そこに神様が降ってきた、等という事では、ない。神様のコトバが鳴り響ているという事、それが、即ち「宇宙」であります。

神の心の響きが、 神様のコトバが、端から端まで鳴り響ている、それが宇宙である、というか、その、鳴り響いている、という、コトバそのものが、宇宙なのです。それを、『古事記』は表しているわけですね。

今、現在も、宇宙全体で、この日本で、この家に、私に、無論、このパソコンにも、天之御中主神が無限に鳴り響いて充ち満ちているのです。

どんな景色も、草花も、獣たちも、すべて神様の心が鳴り響ている、神のコトバそのものであります。風が吹いても、雨が降っても、台風の中にも、神様のコトバが無限に鳴り響いている、そのことを観ずるのが「神を信じる」ということなのです。

「天之御中主神は中心帰一の神様である。」と、楠本加美野先生は言われたそうですが、この神様のコトバが鳴り響いているところに、自然に「中心帰一」の真理も、現れる。

私の記憶が正しければ楠本行孝先生の講話にもあったと思うのですが――私のブログの記録からは漏れているようですが――この「中心帰一」の真理は、「天之御中主神」の名前にも表れている、ということが『古事記と現代の預言』において谷口雅春先生がお説きになられています。

 しかし宇宙の一番初めの元の神様に名前は無いのであります。我々の名前は、人間にはいろいろの人間があり、それの区別を付けなければならないので、名無しでは困るからいろいろな名前を付けてあるけれど、元の神様は一つだから名前なんか無いのであります。【中略】それで、或る場合には「天之御中主神」と名付け、或る場合には「阿弥陀(あみだ)」と名付け、或る場合には「エロヒムの神」と名付け、或る場合には「ゴッド」と名前を付けたりしています。「名前が違うから別の神様である」と、こう勝手なことをいうのであります。本来名前がない本源の神様に、勝手に名前を付けておいて、「これは別の神である」というのは変であります。【中略】そういうわけで「天之御中主神」というのは人間が勝手に名前を付けたのですが、それは固有名詞じゃないのであります。その証拠に、「天之」と「天」の字の下に「之」を付けているんですね。これは説明の言葉であります。『古事記』には「アメノ何々」と称する神々がたくさんある。天岩屋戸(あまのいわやど)に天照大御神がお隠れになった時に、裸のダンスをした「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」なんていう神様もあります。またそのほかにも「天児屋命(あめのこやねのみこと)」とか「天太玉命(あめのふとたまのみこと)」「天菩比命(あめのほひのみこと)」などという神様には皆「天(あめ)」という呼び名が付いており、「アメノ……」とは読ましているけれども、「之」という字は付いていないのであります。この「天之御中主神」だけは「之」が書いてあるのは、本源の神様に「名前なし」であって、ただ「宇宙の御中に主なるところの神」であるという説明の意味が名前の如くあらわされているのであります。

もっとも、単に「中心帰一」の真理、というと「御中に主なるところの神」が宇宙のど真ん中にいて、そこに頭を下げなければならないのである、とかそういう風に解釈する人もいるかもしれませんが、決して、そういう意味では無い。

 アメノミナカの「中」というのは、この天球の真中(まんなか)だけに在(ま)しますのであるかというと、そうじゃないのであって、この「中」というのは、シナの『中庸』という書物に「喜怒哀楽未(いま)だ発せざるを中と言う。発して節に当たるこれを和と言う」という具合に書かれているのでありますが、

いきなり『中庸』という、古代中国の古い書物が出てきて、面食らった人もいるかもしれませんが、これは「中和」という言葉の語源となった一節だそうです。

原文は「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発して皆節に中る、これを和という。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育つ。」ということで、現代語訳すると「喜怒哀楽の感情がまだ起こっていない状態、これを『中』と言っている。喜怒哀楽の感情が起こってそれがすべて節度に従っている状態、これを『和』と言う。『中』は天下の摂理を支えている大本である。『和』は天下の正しい節度を支えている達道である。『中和』を実践すれば、天地も安定して天災など起こることもなく、万物がすべて健全に生育するのである。」と意味になる(はず)です。

という具合に書かれているのでありますが、その「喜怒哀楽未(いま)だ発せざるを中と言う」その「中」が天之御中主神の「ミナカ」であります。これを「未発の中」というのです。「発せず」というのは「まだ起こらない」ということで、「喜怒哀楽未(いま)だ発せざる」とは、つまり、現象が未だ起こっていないその本源なるものが「中」なのです。「中」は偏らないのであります。現象が現れるということは、すべて、或る自己限定をして偏りに依って現われて来るのです。【中略】偏らないと、形というものは出て来ない。谷口の顔になるためには、谷口の顔に偏って自己限定しているのである。他の人の顔を全部まぜ合わせて最大公約数をとって、誰にも偏らぬ平等の顔になったら、谷口で無くなってしまうのであります。それで、この「中」というのは「偏らないところの本源」という意味であります。【中略】
 で、宇宙の本源で、何処にも偏らない、未だ一切の姿に発せざる「中(ミナカ)」なる所の、主なる神様が天之御中主神であるわけです。この主なる神様がキリスト教で「主よ、主よ」という神であります。キリスト教と、神道と非常に違うように思う人もありますけれども、生長の家式に解釈すればすべて同じように一致して争いがなくなるのです。【中略】
「主」という字は「坊主」の「主(ず)」という字、「天台座主」の「主(す)」という字で明らかでありまして「主」は「ス」であります。宇宙の本源の言(コトバ)が「ス」である訳です。未だ発せざる「未発の中」の゛ス"は発して聴こえる「ス」という字ではなくて、文字にも表わすことができない。声に発することもできない万籟(ばんらい)寂(せき)とした眠っている時の゛スヤスヤ"の声なき声の゛ス―"であります。この「未だ発せざる」無声の声の゛ス―"が分化して(自己限定して)コトバとなると、アイウエオ、カキクケコ、サシスセソ……と五十音の発音を我々はするのであります。

この「未発の中」というのも、深い真理ですから、また次回に詳細を述べたいと思います。


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