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2016年9月 7日 (水)

『古事記と現代の預言』(谷口雅春先生)を読む(2)


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この序文には、『古事記と現代の預言』の核心部分が、記されています。

そこには、こう書いてあります。

『古事記』や『日本書紀』にあらわれたる日本建国の神話は、単に一個の人間の捜索ではないのである。それは民族神話である。日本の古代民族がいつの間にかそのような神話を想像力によって創作したのであって、日本の建国も日本の文化の発達も、古代日本民族の想像力がつくり出した神話の創作したものである。日本建国以来の日本の国体(゛くにがら"であって、国民体育の事ではない)も、歴史の発展も、『古事記』や『日本書紀』にあらわれた神話の具体化に過ぎないのである。

この文章、雅春先生ご存命の頃から「国体」を「国民体育大会」の略称だと考える人がいたことを示していて、面白いですね。「肉体民主主義からの脱却」ということで、体育を嫌っていた(より正確には、運動神経の問題で体育が嫌いになった)私は、国民体育大会などに全く関心がなかったため、そんな間違いをしたことはありませんでしたが。

信徒の方はご存知の通り、生長の家では、

「実相」→「現象」

と、説きます。人間の場合は、

「神」(光源)→「人間」(光)

の、関係であり、

「神の子・人間」→「肉体・人間」

と、言うことになります。もっとも、雅春先生の書かれた『霊供養入門』によると、

「神の子」→「霊体」→「幽体」→「複体」→「肉体」

と、言うことになりますが、生長の家はほかの宗教と比べて、比較的霊界のことはとやかく言わないので、ここでは、簡略化した図を使います。尚、「複体」ではなく、「エーテル体」ではないか、というご指摘もあるかと思いますが、「エーテル」の存在については当時と現在では考えが異なっており、私は極力、「エーテル」の用語を使わないようにしています。(「複体」は「帰幽の神示」に基づく表現です。)

これを、国家に当てはめると、

「実相の国家」→「現象の国家」

となり、より分かり易くすると、

「建国の理念」→「現実の国家」

ということになるわけですね。


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前置きが長くなりましたが、いよいよ『古事記と現代の預言』の第一章に入ります。

『古事記』という書は、御存知の通り、天地開闢の始めから推古天皇の御代に至るまでの、その日本の歴史を古代日本民族の伝承にもとづいて書いたものであります。

雅春先生、すみません、私たちの世代の中には、「御存知」ではない、今回の引用文を読んで始めった、という方も、おられたかもしれません。私も、出雲井晶さんの本で日本神話を学んだ人間ですから。

なお、「天地開闢」というのは、「宇宙誕生」とほぼ同じ意味です。

 もっとも、天地開闢の時に人間がおって見ていたわけではありませんから、天地開闢の時の記録というものは、見ておってその状態を書いたものではない。それではどうしてそれを知ることができたかといいますと、それは直感によるしか仕方がないのであります。直感といいますと、そのものズバリの認識であります。存在の実相をそのものズバリと、直接に認識するのです。間接に何かを媒介として、例えば感覚を通して認識するのでなく、そのものに直接じかにぶつかって、それを知るのであります。

これは、少し難しい言葉ですが、生長の家信徒の皆様は、よくお解りだと思います。私たちが神想観で行おうとしている(そして、私のような青い信徒にはなかなかできない)ことですね。

直接認識によらなければ、実相というものは知ることができない。現象というものは、現れている象(かたち)ですから、見る立場によっていろいろに変わって来るのであります。

(なお)、先ほど、「生長の家はほかの宗教と比べて、比較的霊界のことはとやかく言わない」と言いましたが、ここでいう「直接認識」というのは、「霊感」とは、異なるものです。

『甘露の法雨』には、「創造の神は五感を超越している、六感も超越している」と書いてあります。五感というのは五官によって感じられる感覚です。神は視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感を超越しているのです。五感を超越しているものは見えないのです。それなら六感というもので感じたら神は見えるのではないかと考える人があるかも知れないが、神は六感も超越しているのであって、六感によって神姿(しんし)を見たと言う人があっても、まだ本物ではないのであります。

ここでいう「六感」が、いわゆる「霊感」のことです。

 六感というのは、五感の外(ほか)にまた別感覚が一通りあるのをいうのです。それは視覚に対応するところの霊眼、聴覚に対応する霊耳(れいじ)、嗅覚に対応する霊鼻(れいび)と口に属する霊舌と、それから触覚に対応するところの霊触(霊の触覚)というように、六感の中にも五種類あるのであります。

霊感などというものは、オウム真理教の修行でも得られるものであって、オウムの修行者の中には、阪神・淡路大震災を予見した者もいたということですが、それでオウムの修行が「本物」だと証明されたかというと、そうはならないのです。

この『古事記と現代の預言』を読み進めていく上で、また触れることもあると思いますが、霊現象というものは、幽霊とか心霊現象の類だけでなくて、神霊――生長の家で言うところの「第三義の神」に関するところのものも、あります。

「霊験のある神様を拝んでいるから安心だ」とか、「私が拝んでいるこの神社の神様には霊験があるから、本物だ」等という感覚だと、本当の信仰とは言えないどころか、逆に、清の信仰から遠ざかることもあるのです。

特に、幼い頃に神社等において、神秘的な現象を体験したものは、気を付けなければならない。彼らは「実相の神」では、なくて、「現象の霊験」を拝んでいる恐れが、強い。そういう若者は、「物質を超える世界」があることを体験的に知っているから、生長の家の御教えにも関心を持ちやすいのだけど、無意識に「第一義の神」ではなくて「第三義の神」を拝んでしまっている可能性があるから、充分に気を付ける必要があります。

念のために言っておくと、今の生長の家も決して霊魂の存在を否定しているわけではないのであって、前々回の兵庫教区の講習会においては、総裁先生が「前世の記憶」の話をされていましたが、質問があれば総裁先生もそういう話はされますし、恐らく、宇治別格本山の個人指導でも、相手によってはそういう話はされるでしょう。事実、生長の家宇治別格本山においては、先祖供養や流産時供養における奇蹟体験談が、続々と、山のように存在しております。

ただ、繰り返しますが、こういう霊感による把握は、決して「直接認識」によって把握されたる「本物」の把握では、ないのです。

 これらの第六感を得ると素晴らしく自分が偉くなったように思う人もあるけれども、そういうものは実相覚じゃないのでありまして、一種の霊的感覚――第六感が開いてきたわけで、霊媒的の素質がある人にこれが多いのであります。この霊媒的素質というものは、半ば肉体的素質であって、その肉体のなかに言わば「霊的トランジスター」みたいなものを生まれつきもっている人にこういう能力が多いのであります。併(しか)し、そういう霊的第六感によって感じたものは、本当の実相ではないのでありまして、その第六感の「霊的トランジスター」みたいな感覚器官によって翻訳したところの相(すがた)であります。だから矢張(やは)り間接認識であって、直接認識ではないのであります。【中略】ですから、魂が向上しておっても、全然、そういうトランジスター的成分が肉体にない人ではそんな第六感は無いということになる訳であります。だから、自分は神様の姿が見られないから、駄目だということもないし、そういう神様の姿が見えたから、私は素晴らしく悟りを開いているんだなどと高慢なことを考えるのも間違いであります。そこで、創造の神は、そのような五感や六感で見えるものでないから「創造の神は五感を超越している、六感も超越している」と『甘露の法雨』に示されているのであって、このような超越的な存在が根元の神様であります。


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「実相覚による直接認識」等というと、何のことか、わからなくなる人も出てくるでしょうが、これについては、生長の家総裁・谷口雅宣先生が、「想念を浄めて神に見(まみ)える祈り」に分かり易く書いてくださっています。

 我は今、五官の感覚によって立ち現われ、立ち騒ぐ世界から心を放ち、神の創り給う実在の世界に心を振り向けるのである。我が前に見え、聞こえ、感じる世界は仮の世界であり、我が心の映しである。それは実在でなく現象であり、本来無い世界である。神は完全であるから、神の創られたすべての実在は完全である。完全なるものは摩耗せず、故障せず、朽ち果てず、壊れない。我が前で摩耗し、故障し、崩れ、消えゆくと見えるものは、本来無いものであり、実在しない。我はそれら変転する現象から心を放ち、その゛奥"にある真実存在に心を振り向けるのである。

この、雅宣先生の文章に、実相を「直接認識」する、ということがどういうことであるかが、分かり易く記されていると、思います。

それでは、『古事記と現代の預言』に戻ります。

 さて、その直接の認識によって日本古代の民族が如何(いか)に天地開闢の初発(はじめ)を感じたかという事が『古事記』の始めのところに書かれている訳であります。

というわけで、懇切丁寧な、長い前置きも終わり、いよいよ、大聖師による『古事記』解釈が始まります。

“天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。此(こ)の三柱(みはしら)の神は、並(みな)独神(ひとりがみ)成り坐(ま)して、身(みみ)を隠したまいき。”(天地(あめつち)の初発(はじめ)の段(くだり)

第一回で述べましたように、『古事記と現代の預言』の原文は総ルビなのですが、ブログに引用する際には、必要最小限に留めています。ただ、『古事記』の解釈では発音も重視されますし、一般に使用される岩波書店版とは雅春先生は違う読みをされているので、『古事記』からの引用では、ルビを多めにしています。

「天地」を「てんち」と訓(よ)むのと、「あめつち」と訓むのとでは、かなりニュアンスが違ってきますから。

それにしても、私のPCでは、神様の名前は全然、変換しても出てこない。これって、GHQによる3S政策のせいではないのか、パソコンメーカーまで3S政策に協力しているのか、と、つい、思ってしまいます。(笑)

 この「高天原」というのを「たかまがはら」と読む人がありますけれども、これは「あま」と読むのが正しいということが『古訓古事記』の頭註に『高ノ下ノ天ハ゛アマ"ト訓ズ』とわざわざ書いてあるのであります。だから「たかあまはら」と読むのが正しいのであります。

岩波書店版では、「たかまのはら」と記されており、早速、雅春先生と別の読み方になっています。

なお、日本思想史学者の故・古田武彦先生は、「たかあまばる」と呼ぶべきだという仮説を主張しています。古田先生の解釈についても、この本を読み進めるうえで出てくることがあると思います。

「高天原」というのは、一体何処(どこ)に在(あ)るかといいますと、何(なん)でも、天の高いところにあって、神様が其処(そこ)に集会でもしているのであろうというふうに思っていた国学者もあったし、また現にそういうふうに解釈している国学者もあるのですが、実は「高天原」というのは宇宙全体のことを「高天原」というのであります。

ちなみに、岩波書店版の『古事記』にも「高天原」に「天上界」と注釈を入れています。

岩波版の『古事記』は、宗教的な観点から見ると、不適切な読みや注釈が多く、歴史学界でもその内容が正しいかは議論があるので、皆様は岩波版の解説を迂闊には信じず、雅春先生の解説をよく読むようにしてください。

 宇宙全体といいましても、その宇宙は、我々の見ている現象宇宙ではないのでありまして、実相宇宙であります。

高天原とは、実相のこの世界そのものである、ということなのです。


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深い真理ですね。

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