「中立」という名目の不寛容
日本人は、「政治的に中立」というと「あらゆる政治的立場の排除」を行い、「宗教的に中立」というと「あらゆる宗教的立場の排除」を行う。
「中立=いずれにも与しないこと=すべてを排除すること」である、という、極めて「不寛容」な考え方が「中立的立場」として取り上げられ、マスコミも「中立的な報道」と称して、あらゆる対象のことを否定的に取り上げ、肯定的に取り上げることは、ほとんどない。
政治家が争うと、双方の悪い面を報道してよい面についてはほとんど触れないし、宗教についても同様である。これほど、「不寛容」なことはない。
季刊雑誌『宗教問題』の2016年夏号に慈永祐士氏の「"無宗教"は融和への道か」というコラムがあった。
日本人は「無宗教であるから、宗教に寛容である」とよく言われるが、それは本当に事実であろうか?と、いうものだ。
慈永氏によると、例えばスリランカでも土着の神と仏教の信仰が結びついている例が存在する。「神仏習合」は日本だけのものではなく、また、無宗教の証拠でも、ない。
そして、慈永氏はこう言われる。
「無宗教とは、自らの思考のみを信じ、それによって自立していると思い込むことであり、その思考の枠の外――生死の向こう側――への姿勢を欠損させていると表明するのに等しいことなのだ。」
多くの「無宗教」の日本人は、他人が信ずる宗教を「否定」することが「中立」である、と思っている。ネットや週刊誌を見ても、政治家と宗教家へのゴシップ記事が、如何に多いことか。
しかし、そういう方は、この慈永氏の問いに、どのように答えられるのであろうか?
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