父母への感謝
幼いころ、私は生長の家の地方講師である母に甘えて、常に離れずにいた。
母は、母方の祖父母の家の仏間で毎日のように『聖経甘露の法雨』を読誦されていた。
私が先祖供養を行う際は、『甘露の法雨』や『天使の言葉』『観世音菩薩賛歌』の本文だけの場合が多い。というか、ほとんどがそうだ。
しかし、母は『七つの灯台の点灯者の神示』から読誦されていた。
そこには、「皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せしょ。汝の夫又は妻に感謝せよ。・・・・」と、書かれている。
「ママ、こうおん、って、何?」
そう聴いた私に、母は優しく、
「天皇陛下の事やで。」
と答えられた記憶が残っている。
「汝らの兄弟のうち、もっとも大なるものは汝の父母である。」
「神に感謝しても、父母に感謝しえない者は神の心に適わぬ。」
このフレーズも、繰り返し聴いてきた。
だが、愚かな私は、親への感謝を忘れることも、しばしば、であった。
高校2年生の頃の宇治の一般練成会で私が救われたのは、浄心行でそのことに気付いたからであった。
「親への感謝は一生の課題」
そう言われたことも、ある。
父母に感謝することには、限りがない。
「ここまで感謝したから、もうこれで充分」
ということには、ならないのだ。
宇治の練成会で出会ったある女性の方が、こう言われた。
「私は、母親になって初めて両親の恩が分かりました。」
その方は、帰る際に、
「これまでの私はまだまだでした。今回の浄心行で、やっと両親への感謝が分かりました。」
と、言われた。
その方は、既に充分、悟りの深い方である。それでも「まだまだ」と言われるのであれば、私などは、「まだまだ」という資格すらない、スタートラインにすら立っていない存在だろう。
そうか、父母への感謝というものは、いくら深く掘り下げても、さらに深く掘り下げなければ「まだまだ」なのか、と思った。
私も今回、浄心行を受けて、その方の言葉の意味が分かった。
自身が神の子であることを自覚すれば、自覚するほど、父母への感謝がまだまだ足りないことが分かってくる。
「父母への感謝=神の子の自覚」なのかも、知れない。
これは、「父母への感謝ができていない」と言って卑屈になること道ではない。
そうした自己処罰の道ではなく、自分が両親に感謝できることへの悦びがこみあげてくるのが、生長の家の真理の素晴らしいことである。
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