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2019年11月

2019年11月23日 (土)

『隋書』の「倭国」と「秦王国」は九州王朝でも大和朝廷でもない


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 去る11月16日、古田史学の会例会で『隋書』における倭国と秦王国について発表させていただきました。

 『魏志』から『南史』に至る中国の正史では、九州王朝のことは一貫して「倭国」と記されています。(無論、定説では大和朝廷のこととするわけですが。)

 ところが、『隋書』では九州王朝(定説では大和朝廷)が「俀国」と記されているのです。一方、別に「倭国」というのも登場します。

 定説では「倭国も俀国も一緒で、どちらも大和朝廷のことである」としました。対して古田武彦先生は「俀国は九州王朝、倭国は大和政権である」としました。そして私は古田先生の「俀国九州王朝説」については継承しつつ、「倭国大和政権説」を否定し、九州王朝でも大和政権でもない独自政権であると発表させていただいたのです。

 こうした主張はこれまで個人的に言うことはありましたが、改めて発表すると様々な指摘をいただきました。特に「俀国と倭国を同一と考えて問題ない」という意見はいただけましたが、私からすると「明確に書き分けられているものを、あえて同一国と見做す」だけの理由があるようには感じられませんでした。

 最後に、レジュメを画像にしたものを添付させていただきます。古田史学に詳しい方はレジュメもご覧ください。

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追記

 『隋書』「俀国伝」の行程記事は先行動詞の有無を中心に「主線行程」と「傍線行程」とを明確に区別するべきです。それを基準に解釈すると次のようになります。

度百濟⇒主線行程(先行動詞あり)
行至竹島⇒主線行程(同上)
南望𨈭羅國⇒傍線行程
都斯麻國⇒主線行程(先行動詞あり)
迥在大海中⇒主線行程(先行動詞あり)
又東至一支國⇒傍線行程
又至竹斯國⇒主線行程(中心国名)
又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也⇒傍線行程
又經十餘國,達於海岸⇒傍線行程
自竹斯國以東,皆附庸於俀⇒中心国を示す記事

 つまり、あくまでも

百済――竹島――都斯麻国――大海――竹斯国

というのが主線行程であり、後の記事は傍線行程です。秦王国についても傍線行程であることを前提に解釈する必要があります。


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2019年11月17日 (日)

現世利益の信仰を超えて


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 よく「インド人は信仰熱心な人たちである」という方がいます。一方では「インド人は信用できない」という人もいます。

 私は三ヶ月ほどインドで修行してきた人間ですが、その間、私は信仰熱心なインド人も見てきましたし、ぼったくりをするインド人も見てきました。信仰熱心な方が盗人である、と言う話も現地で聞いたことがあります。

 こういうインド人の二面性を「貧困のせい」とか「途上国だから」等というのは簡単でしょう。しかし、やはりインド人の信仰生活のバックボーンにあるヒンドゥー教が現世利益の宗教である、というのは忘れてはならない視点だと思います。

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ヒンドゥー教の寺院のある湖の舟で
(ヒンドゥー教寺院は現世利益信仰が目的であり、また不用意な参拝はカースト制度容認といった間違った政治的メッセージを発する恐れもあるので、私は見学はしても参拝はしない)

 例えば、インドではよくガネーシャを拝む人がいます。ガネーシャの祭りは盛大に行われています。

 ガネーシャは実は日本でも比較的知られている神様です。かつて「夢をかなえるゾウ」というドラマに出てきましたし、昔から聖天様という神様として知られていました。

 兵庫県西宮市にある真言宗寺院の聖天寺の公式HPには聖天様のことを「現世利益のチャンピオン」と記されています。そして「お聖天さまは秘仏中の秘仏とされ、皆様の目に触れることを許されていない」とも記されています。

 そう、日本では聖天様はどんな願いでも叶えてくれる神様でありながら、気軽に祀ったり、見たり、するのはいけない存在である、とされているのです。だから「現世利益のチャンピオン」でありながら、知らない方も少なくありません。

 というよりも、現世利益を求めるのは本当の信仰ではないのです。今月の生長の家の機関誌に掲載された谷口雅宣先生の次の文章は、まさに的を射ています。

 私たちが、不安から逃れたくなり、また願いごとをしたくなるのは、こんな精神状態のときだろう。そんな時、どこかの神社か寺院に出かけていって、神仏の前で願いごとを述べたり、お札やお守りを買って来て、自分の近くに置いておくか、人によっては、肌身離さずもっていたいと思う。そうすることで、神と私との間の距離が縮まり、「神の護り」が得られるような気がするのである。

 しかし、このような信仰は、「我は神の子なり」の信仰とは言えないのである。「神」というものが、空間的に「私」とはどこか別のところに存在していると感じているし、「私以外のもの」とも、神は別だと感じている。聖歌『実相を観ずる歌』にもある通り、「神はすべてのすべて」なのだから、「私」の中にも神はいまし、「私以外のもの」もすべて神に包摂されている、というのが正しい理解であり、正しい信仰である。そのような信仰を得るためには、「私」は自分の肉体の中に閉じこもっているというような物質的な認識を超える必要がある。そして、「私以外のもの」のすべてに「私」がいる、との自覚に近づく。すると、論理的にも感覚的にも「私以外のもの」は消えてしまうから、「私」は神に包摂され、「神と一体である」との自覚に達するのだ。(谷口雅宣「神の護り」『生長の家 2019年11月号』6~7頁)

 ヒンドゥー教の最大の問題は、それが専ら現世利益の多神教である、ということでしょう。無論、そうでない教派も存在するのですが、カースト制度や動物をいけにえにする供養を始めとするヒンドゥー社会の悪習の根拠となっている『マヌ法典』等の信仰は、現世利益を求める民衆感情と密接に結び付いています。

 日本でも宗教が衰退している最大の原因は、「宗教=現世利益」という意識にあると思います。どんな宗教でも一見「奇跡」に見えるような御利益はあるのですが、それを過度に重視してカルト的な信仰に嵌る人、逆に「○○を拝むと幸福になる」といったイカガワシイ現世利益に嫌気がさして宗教が嫌いになった人、こう言った人は少なくないはずです。

 そうでなくとも、現世利益のためだけに神社仏閣に参拝し、日常生活では無宗教な日本人は、少なくないどころかむしろ「多数派」かも、知れません。正月の初詣だけ神社に来て「今年一年、幸せにして下さい」といい、あとは神社に全く関心を持たない人は、このブログの読者の中にもいるはずです。

 「すべては一体である」ということが判ればそう言った現世利益信仰が無意味であることが理解できるのですが、それを本当に理解することはなかなか難しいのも事実です。


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2019年11月16日 (土)

自己内奥の完全な仏性を表現する努力


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 生長の家の教えは徹底した光明思想です。どんな悪いことがあっても明るく喜ぶのが、光明思想です。

 そういうと「現実を見ない生活」なのか、と勘違いされる方がいるかも、知れません。生長の家では「現実」ではなく「現象」と表現しますが、生長の家の生き方と言うのは決して現象の不完全さに目をつぶる生き方では、ありません。

 動物が殺されるのが可哀想だと思えば肉を食べないし、困っている人がいたら助けてあげる、力になれない場合は祈ってあげる、先祖供養もするし場合によっては縁のある方が変死した場合は血がつながっていなくとも供養する、そういう風に現象へ対処するのも生長の家の信者の菩薩行であります。

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 しかしながら、生長の家の生き方と言うのはそういう一見「悪」に見えるような現象を直視しながら、なお光明面を見る生き方なのです。そのことについて生長の家総裁谷口雅宣先生は次のように述べられています。

 私たちは、周りの世界に不完全なものが見えると不満を感じますが、それはある意味では素晴らしいことなのです。それは、我々の中にある、生長の家で「神の子」と呼んでいるもの、あるいは仏教で「仏」と呼んでいるものが満足していないからです。その“仏”や“神”が「完全」の物差しをもっているから、その物差しをいろいろの所に当てて「あそこが足りない」「あそこがちょっと曲がっている」「あの政治家がちょっと汚れている」などと感じるわけです。不完全が見えるのは、我々の中に「完全」があって、それが周りの世界に表現しきれていないから不満を感じるわけです。

 そんな時、私たちがするべきことは、そういう不完全なものを壊したり潰すことではない。「ぶっつぶせ!」ということになったら、今の自分もぶっつぶさないといけなくなります。なぜなら、自分は眼鏡をかけていたり、コンタクトレンズをはめていたりして不完全だからです。誰でも現象的には不完全であり、不完全な肉体をもっているからです。しかし、それを使って完全に向かって表現する。より完全な表現をするために努力する。そこに私たちは生きがいを感じるし、ほかの人がそうするのを見ると感動するわけです。(『足元から平和を』152~153頁)

 私は眼鏡もコンタクトもしてはいませんが、視力が良いとは言えません。それでも本を読んで文章を書ける程度には目が見えるので、自分の肉体にもそれを生かしていてくださる神様にも感謝です。

 肉体と言うのも自分の作品であり、この世界も自分の作品です。より良い作品を作るために努力していかなければなりません。未熟な私はまだまだ精進すべき点が多々あります。


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2019年11月15日 (金)

生長の家の信仰とは常不軽菩薩の生き方の実践――全ての人の仏性を礼拝するということ


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 私は今年の八月から今月初旬までの約3か月間、インド仏教復興運動最高指導者・佐々井秀嶺上人の下で修業させていただき、得度させていただく光栄に恵まれました。南天会の亀井龍亀上人をはじめ多くの方のお世話になったというか、かなりご迷惑をかけた結果であります。皆様、本当にありがとうございます。

 佐々井上人は今ではインドに帰化し、インド政府の少数者委員会仏教徒代表に任命されるなど、名実共にインド仏教徒の頂点に立たれている方ですが、元々は真言宗の高尾山薬王院で得度された日本のお坊さんです。

 そして、真言僧侶でありながら日蓮聖人を崇敬されており、インドで「南無妙法蓮華経」の題目も弘められました。今、インド仏教徒はパーリ語の経典のみならず題目も読誦しています。

 そんな佐々井上人が私にくださったのが、常不軽菩薩の画です。大阪の高名な画家の豊下靖弘画伯の作画であり、貴重な絵画を頂いたことには本当に感謝しかありません。

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 この常不軽菩薩について、谷口雅春大聖師は次のように説かれています。

『法華経』に常不軽菩薩品というところがあります。常不軽菩薩というのは、常に軽んぜざる菩薩と書いてある。この菩薩は「われ常に人を軽んぜず」と言って、どんなヤクザが来ても、前科者が来ても、泥棒が来ても、ヒロポンの中毒が来ても、みんなに「あなたさまには佛が宿っておられるのです。必ず佛の実相がやがて現れるのでございます。有難うございます」と言って、どんな者にでも皆拝んだというのであります。そしたらヤクザが憤慨して、「どこが此の俺が佛か。俺みたいな者が佛だなんて言って、いいかげんな、人をごまかしやがって」といって、石を投げ打って菩薩を傷つけようとすると、常不軽菩薩は後にしりぞいて、石のあたらん辺まで行くと又振り向いてそのヤクザを拝んだというのです。“どんな人でもみんな佛の生命の現れである”というので、みんな拝んだのです。

 その結果、その常不軽菩薩は今「私」となって生きているのである――と、お釈迦さんが言われたと『法華経』にはあります。即ち釈迦牟尼如来として生れて来ているのは、この常不軽菩薩であったのであります。すべての者を佛として拝んだら自分が佛になるのであると云う真理をお釈迦さんはお説きになったのであります。それを実行しているのが、生長の家であります。(『即身成佛の真理』28~29頁)

 生長の家では両手を合わせて「ありがとうございます!」と言うのが挨拶になっています。これは相手の仏性に対して「ありがとう」と言っているのです。

 「それを実行しているが」と雅春先生は言われましたが、恥ずかしながら私は生長の家の信徒でありながら、本当に生命礼拝を徹底して実行しているのかと言うと、はなはだ心もとないです。

 常不軽菩薩のように全ての人の仏性を拝むよう、精進して参ります。


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2019年11月14日 (木)

今上天皇陛下の大嘗祭を心よりお祝い申し上げます


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 令和元年(西暦2019年、皇暦2679年、仏暦2562年)11月14日の今日は、今上陛下の最初の新嘗祭である大嘗祭の日です。

 私がインドに行っている間に、生長の家では教団を挙げて今上陛下の即位の礼の祝賀をされていたそうです。全国紙にも広告を出し、龍宮住吉本宮や宝蔵神社では祭典もされたのだとか。

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 天皇陛下は国の中心であり、中心帰一の必要性を生長の家総裁・谷口雅宣先生は次のように説かれています。

 イラク戦後の統治の問題は、先の大戦後のアメリカによる日本占領とは一見似ているようだが、大きく異なる点がある。それは、日本人は天皇陛下の下で一丸となって「耐え難きを耐え」たのに対し、イラクは政治の中心を失い、宗教的な中心も得られないでいる点だ。“国の中心”がしっかり安定していることの重要さを、あらためて実感するのである。(「“国の中心”を失うこと」より)

 イラクは未だにイラク戦争による混乱に晒されていますが、日本が「奇跡の復興」を成し遂げることができた背景には、万葉一統の天皇陛下の恩徳があったのです。

 このように、日本の中心に天皇陛下が居られるということは、とても幸福なことです。しかしながら、だからと言って「日本一国だけが素晴らしい」と主張したり、日本だけの利益を考えて他国侵略への協力や地球環境破壊をしたりすることは、天皇陛下の御心に反します

 私は真言宗の法脈をくむ僧侶ですが、真言宗の醍醐寺に伝わる「即位法文書」には、天皇陛下の即位灌頂について次のように記されています。

仍国主ノ命風ヲ四州ノ人民ニ覆テ

仁恵ヲ衆生ニ覆テ国主人民一ニ慈

悲ヲ可垂給印相也

 即位灌頂とは天皇陛下が大日如来と一体となる儀式であり、文書中に出てくる「四州」は地球(閻浮提)を含む四つの世界ですから、今で言うと太陽系全体、あるいは宇宙全体を意味する言葉です。

 つまり、天皇陛下とは世界中の人民を命風で覆い、そして衆生――人間だけでなく動物をも含めた有情の生き物全体――を仁恵で覆う、そういう存在であるということです。

 そういう天皇陛下が国家の中心に有らせられるのが日本と言う国なのですから、私たちは天皇陛下の御心を実現するために国際平和信仰運動へと邁進しなければなりません。


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 生長の家の生き方とは、天皇陛下の御心を体現する生き方です。谷口雅春大聖師がまさにそのような生き方を為されたことを、谷口清超大聖師は、谷口雅宣先生のブログからの孫引きになりますが、次のように述べられています。

「皆さん、(雅春)先生は周知の如く空前絶後の愛国者でいらっしゃいました。しかしそれと同時に、天皇陛下のあの無私の御愛念を、そのまま宣布し且つ実践なさいまして、凡ての人と物を生かす運動を展開せられたお方であります。勿論日本も生かし、それと同時に人類をも生かし、人類ばかりじゃなく、凡ゆる生きとし生けるもの、山川草木国土ことごとくを仏として礼拝し、その実相を顕わし出そうと精進せられたお方であります。それ故、私達はこの生長の家の大真理を、全人類に向かって宣布する使命を戴いたことを、誠に幸せであると思うものであります」(「谷口清超先生を偲んで」より)

 このように、生長の家の運動と言うのは日本だけの運動ではない、無論、日本を生かす愛国者となることはもちろんではあるけれども、天皇陛下の御心をそのまま実践するというのは「人類ばかりじゃなく、凡ゆる生きとし生けるもの、山川草木国土ことごとくを仏として礼拝し、その実相を顕わし出」す、ということなのです。

Photo_20191113212301大学一年生の頃皇居清掃奉仕に参加した私

 ここで「仏」というと「今の時代に天皇陛下は即位灌頂をしていないじゃないか」と言われる方も出てくるでしょうが、万教帰一の真理を学ばれている生長の家の皆様の多くは、神道の天照大御神様も仏教の大日如来も一体であること、私以上によくご存じのことと思います。

 皆様には釈迦に説法でしょうが、このブログは生長の家以外の方も読まれるので一応説明させていただきますと、大嘗祭とは天皇陛下が天照大御神様と一体となる儀式であり、まさに即位灌頂と同じ意義のある儀式であります。


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 生長の家総裁・谷口雅宣先生は天照大御神様について『日々の祈り』所収の「天照大御神の恩徳を讃嘆する祈り」で次のように述べられています。

 このことを知り、われは今、天照大御神の実相の光、与える愛の力の尊さをあらためて誉め讃う。われは今、実相世界の真の我を観ずる。天照大御神の御心われに流れ入りて、わが心を満たし給う。天照大御神の生命(いのち)われに流れ入りて、わが生命(いのち)となり給う。わが心は天照大御神の愛の心に満たされている、生かされている、満たされている、生かされている。天照大御神は「愛なる神」の別名である。キリストの愛の別名である。自ら与えて代償を求めない「アガペー」の象徴である。また、三十三身に身を変じて衆生を救い給う観世音菩薩の別名である。われは今、天照大御神と一体となり、地上のすべての人々、生きとし生けるものに愛を与えるのである。天照大御神の愛は無限であるから、われもまた無限に愛を与えてもなお減ることはないのである。

 われは今、天照大御神の表現である太陽を心にアリアリと観ずる。太陽は、「与える愛」「生かす愛」「仏の慈悲」の象徴である。天文学が教えるように、地球や月は太陽から弾き出されてできた惑星であり、太陽の引力のおかげでその周囲を公転する。地球は、太陽なくしては宇宙の無の空間に吸い込まれ、闇の彼方へ退くほかはないのである。鉱物としての地球は、太陽の引力と恒星としての“燃える力”なくしては、「死の星」と化さざるを得ない。生命はそもそも生じず、生じても極寒の中でたちまち死滅するほかはない。しかし、太陽が地球や月を引力でとらえ、莫大なエネルギーを注ぎ続けたために、地上に生命が誕生した。生命は太陽エネルギーを受け、自らの力で新たな生命を生み出すのである。同種の生命を生み出すだけでなく、ときに変異して新たな種を生み出し、それらが同様に同種・別種の生命を次々と生み出すことで、地球上には生物が溢れ、互いに繁栄するに至っている。

 これらはすべて、太陽の「無償の愛」の業績である。太陽は、地球から何の報いを得なくとも、無限に与え続けるのである。この偉大な力によって、地上に多様な生命と生態系が出現し、おびただしい数の生命が支えられていることを思うとき、人類も「与える愛」を駆使することで、地上の平和と秩序と、多様なる生命の共存共栄を実現できることを知る。われは今、天照大御神の日子・日女として、その高邁なる目標を掲げて生きるのである。われ今、天照大御神の御徳を讃嘆し奉り、大神の日子・日女として喜びをもって使命遂行に邁進することを誓い奉る。ありがとうございます。

 この祈りにあるように、私も「我、天照大御神と一体なり!」の自覚を以て、改めて国際平和信仰運動、自然とともに伸びる新しい文明の構築に励ませていただこうと思います。


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2019年11月13日 (水)

荒巻丈新政未来の党顧問のご冥福を心よりお祈り申し上げます

 

令和元年(西暦2019年、皇暦2679年、仏暦2562年)9月25日、新政未来の党の荒巻丈顧問が逝去されました。今日が丁度、49日です。
私は新政未来の党の代表として、荒巻顧問にはとてもお世話になりました。告示が昨日でしたので今日まで気付かなかったご不明を故人に深くお詫び申し上げます。
奇しくも荒巻顧問が旅立たれたのは、私の僧侶修行の最中でした。荒巻顧問のご冥福を心より祈らせていただきます。

 「ご冥福をお祈り申し上げます」――自分で書いたこの言葉が、軽く聞こえてしまう。

 こんな、型通りの言葉では、お世話になった恩人への思いを表すことは、出来ない。しかし、そんな言葉でしか伝えることのできない私の未熟さが、嘆かわしい。

 新政未来の党は荒巻顧問無くして、誕生しなかった。荒巻顧問には物心両面でお世話になった。

 彼は常人ではなかった。靖国の英霊が神であるならば、荒巻顧問も英霊である。

 荒巻先生、本当にありがとうございました。

 

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