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2019年11月16日 (土)

自己内奥の完全な仏性を表現する努力


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 生長の家の教えは徹底した光明思想です。どんな悪いことがあっても明るく喜ぶのが、光明思想です。

 そういうと「現実を見ない生活」なのか、と勘違いされる方がいるかも、知れません。生長の家では「現実」ではなく「現象」と表現しますが、生長の家の生き方と言うのは決して現象の不完全さに目をつぶる生き方では、ありません。

 動物が殺されるのが可哀想だと思えば肉を食べないし、困っている人がいたら助けてあげる、力になれない場合は祈ってあげる、先祖供養もするし場合によっては縁のある方が変死した場合は血がつながっていなくとも供養する、そういう風に現象へ対処するのも生長の家の信者の菩薩行であります。

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 しかしながら、生長の家の生き方と言うのはそういう一見「悪」に見えるような現象を直視しながら、なお光明面を見る生き方なのです。そのことについて生長の家総裁谷口雅宣先生は次のように述べられています。

 私たちは、周りの世界に不完全なものが見えると不満を感じますが、それはある意味では素晴らしいことなのです。それは、我々の中にある、生長の家で「神の子」と呼んでいるもの、あるいは仏教で「仏」と呼んでいるものが満足していないからです。その“仏”や“神”が「完全」の物差しをもっているから、その物差しをいろいろの所に当てて「あそこが足りない」「あそこがちょっと曲がっている」「あの政治家がちょっと汚れている」などと感じるわけです。不完全が見えるのは、我々の中に「完全」があって、それが周りの世界に表現しきれていないから不満を感じるわけです。

 そんな時、私たちがするべきことは、そういう不完全なものを壊したり潰すことではない。「ぶっつぶせ!」ということになったら、今の自分もぶっつぶさないといけなくなります。なぜなら、自分は眼鏡をかけていたり、コンタクトレンズをはめていたりして不完全だからです。誰でも現象的には不完全であり、不完全な肉体をもっているからです。しかし、それを使って完全に向かって表現する。より完全な表現をするために努力する。そこに私たちは生きがいを感じるし、ほかの人がそうするのを見ると感動するわけです。(『足元から平和を』152~153頁)

 私は眼鏡もコンタクトもしてはいませんが、視力が良いとは言えません。それでも本を読んで文章を書ける程度には目が見えるので、自分の肉体にもそれを生かしていてくださる神様にも感謝です。

 肉体と言うのも自分の作品であり、この世界も自分の作品です。より良い作品を作るために努力していかなければなりません。未熟な私はまだまだ精進すべき点が多々あります。


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