『隋書』の「倭国」と「秦王国」は九州王朝でも大和朝廷でもない
去る11月16日、古田史学の会例会で『隋書』における倭国と秦王国について発表させていただきました。
『魏志』から『南史』に至る中国の正史では、九州王朝のことは一貫して「倭国」と記されています。(無論、定説では大和朝廷のこととするわけですが。)
ところが、『隋書』では九州王朝(定説では大和朝廷)が「俀国」と記されているのです。一方、別に「倭国」というのも登場します。
定説では「倭国も俀国も一緒で、どちらも大和朝廷のことである」としました。対して古田武彦先生は「俀国は九州王朝、倭国は大和政権である」としました。そして私は古田先生の「俀国九州王朝説」については継承しつつ、「倭国大和政権説」を否定し、九州王朝でも大和政権でもない独自政権であると発表させていただいたのです。
こうした主張はこれまで個人的に言うことはありましたが、改めて発表すると様々な指摘をいただきました。特に「俀国と倭国を同一と考えて問題ない」という意見はいただけましたが、私からすると「明確に書き分けられているものを、あえて同一国と見做す」だけの理由があるようには感じられませんでした。
最後に、レジュメを画像にしたものを添付させていただきます。古田史学に詳しい方はレジュメもご覧ください。
追記
『隋書』「俀国伝」の行程記事は先行動詞の有無を中心に「主線行程」と「傍線行程」とを明確に区別するべきです。それを基準に解釈すると次のようになります。
つまり、あくまでも
百済――竹島――都斯麻国――大海――竹斯国
というのが主線行程であり、後の記事は傍線行程です。秦王国についても傍線行程であることを前提に解釈する必要があります。
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