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2019年12月

2019年12月24日 (火)

ちょっと今朝の夢の話をするね(どうでもいい話)

 どうでもいい話なんだけど、頻繁に同じ夢を見ると「何かの暗示?」とか「潜在意識のなんちゃら」って気になりますよね?

 今回、何と「夢の中で夢の意味を説明される」という貴重な体験をしたのである!

 私って実はね、「歯が抜ける」夢をよく見るんですよ~。

 で、いっつも夢の中で思うのは、一緒。それは・・・

「あああああああ!これまで歯が抜ける夢は何度も見たけど、本当に歯が抜けてしまった!!」

と、夢の中で思うってやつ。(笑)

 今朝もそう言う感じの夢を見たんですよ。

「うわぁ、悪夢だ!!!」

と思って目を覚めると、なぜか私は三ノ宮駅近くのJRの高架下ぐらいにありそうな交差点にいたという・・・。

 うん、これ、明らかに「夢から醒めても夢だった」っていうやつだよね。

 だけど私、その時は自分が「夢から醒めた!」と思っていたから(笑)、何の違和感もなく。

 で、そこには母がいたんですよ。その母に

「歯が抜ける夢と言うのは、自分が守られたいのに守られないという、不安があるからです。」

と説明をされて「なるほど!」と思ったんです。

 そんな夢の中で見る夢占いで当たっているの?というツッコミはそこでは止めていてね。(笑)

 それで私は何故か「家に霊的に良くないものがあるから悪夢を見たんだ!」と、夢の中で(笑)考えて母と一緒に家の中を検証。

 勝手口から居間に入って、昨日大掃除で事実上のリフォーム状態になった、家具とかが完全に変わっている居間に行くと、私が

「ここだ!ここに霊がいる!風水上よくないはず!」

すると母

「え?何もないけど?風水?」

そもそも、風水って母の方が詳しいわ。(笑)夢の中で何言ってんだ、私。

 なんだけど私、夢の中で「そう言えば、昔祖母に似た幽霊を見たなぁ」と思いだして怖がる。(※祖母は生きています。)

 実は一時期、複数の人が家で女性の幽霊を見ることがあって、私も見ていたんですよね。幼い私はそれを祖母と勘違いして、だけど祖母は別のところにいて・・・という怪奇話ももう十年以上前のことで、今ではだれも見ていないんだけど、夢の中で勝手に思い出して夢の中で怖がっている私。

 そして、裏庭を母と歩いているといきなり祖母が現れるんです。

「え?こんなところに出入口あった?まさか、例の幽霊?」

と思ったら、なんと窓から祖母が外に出てきたというオチ。(※実際の祖母は貴婦人って感じの方でそんなことしません。)

 で、祖母が母に

「ちょっと!学園前駅まで車で送ってもらうんでしょ?急がないと!」

私が「え?奈良の学園前駅?」と、脳内で「?」だらけになっていると、さらに

祖母「JRの学園前!(※私の脳内で大阪の「JR学研都市線」と混同された模様)」

母「それは学校の前の駅という意味!本竜野駅や!」

という会話が!

「学園前、学校の前・・・アハハハハハ!」

と、夢の中で大爆笑をすると目が覚めました

 最初に書いたとおり、どうでもいい話です。すみません。

2019年12月23日 (月)

龍宮住吉本宮から「天孫降臨皇御国成就」の神符が届きました


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 今日、龍宮住吉本宮から「天孫降臨皇御国成就」の誓願符(神符)が届きました。ありがとうございます。

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 龍宮住吉本宮は長崎にある神社で、天之御中主大神・高御産巣日神・神産巣日神の「造化の三神」と住吉大神とを祭祀しています。

 この「造化の三神」というのは、『古事記』の冒頭に「独り神」であると記されています。


 最近、この「独り神」というのを「独身の神」と解釈される方が少なくなく、皇族の血を引くような方(明治天皇陛下の女系の玄孫としてテレビにもよく出る、憲法学者)でも間違えておられるのですが(その方は國體を学んでおられない方なので仕方は無いですが、本来は国民教養であってほしいものです)、これは「一体の神」である、という意味です。

 昨日、私は京都地蔵文化研究所で講演をさせていただき、講演後の懇親会で若干説明させていただいたのですが、『古事記』の文脈上「独身の神」と解釈すると問題があります。そういう専門的なことも、いずれ文章として発表したいと思います。

 住吉大神は私の修行していた宝蔵神社の御祭神でもありますが、宝蔵神社では「すみよし」龍宮住吉本宮では「すみのえ」と発音する、という違いがあるそうです。ただ、宝蔵神社神職の先生から「そういう違いがあるのだけれども、拝んでいる実相(本質)が一緒だと判っていれば問題ありません」という旨のことを言われたことがあります。

 戒師・佐々井秀嶺上人に啓示を下した龍樹菩薩と、宝蔵神社にある住吉大神の御神像は同じ姿をしておられる、と佐々井上人が言われていましたが、これは仏教と神道の本質が一体であることを暗示しているように感じます。

 さて、龍宮住吉本宮で祈らせていただいている「天孫降臨皇御国成就」ですが、これは言葉だけを見ると「日本のことだけを祈っているのか」という誤解をされる方も出てくるかも、しれません。

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 しかし、この神符にも横に「神・自然・人間の大調和」「宇宙浄化・世界平和」と書いてあることでも判るように、これは日本だけではなく、世界の平和を祈らせていただくお札であります。

 ここにおける「皇御国」とは「人と人、民族(たみ)と民族(たみ)、国と国、生物種と生物種が相争うことなく相敬い、相結び、相和し、神・自然・人間の大調和せる地上天国」(龍宮住吉本宮から届いた同封の手紙より)のことであります。

 これは龍宮住吉本宮だけの特殊な思想ではなく、「皇御国」の本来の意味を説明した者であって、私は真言宗の法脈を汲む僧侶(沙弥だけど)でありますが、真言密教の即位法文書において天皇陛下は「四洲の衆生を仁恵で覆う」存在である、とされています。

 事実、今上天皇陛下も即位礼の際に「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添」われることを述べられ、日本だけでなく世界の平和を祈られている、ということを明確に述べられております。

 私も天皇陛下への報恩感謝の意を込めて、世界平和実現のために「神・自然・人間の大調和」を目指させていただきます。

すめらみこといやさか
すめらみくにいやさか
すめらみたみいやさか


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2019年12月16日 (月)

舎利弗でも剥がせなかった天女の花びら


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 私の法名の「龍子」(ナーガプトラ)は、舎利子(舎利弗、シャーリプトラ)から来ているそうです。

 戒師の佐々井秀嶺上人は私が日本に戻る直前、「頑張れ龍子!頑張れ舎利子!舎利子とは舎利弗と言う意味だ!」と言ってくださりました。

 舎利弗と言えば「智慧第一」のお釈迦様の弟子ですから、誠にありがたい言葉を戴いたわけでありますが、それは別に私に智慧があるからではない模様です。

 ある日、佐々井上人は私に他の弟子について「あいつらは智慧はあるけど、理は無いんだ。智慧と理の双方が必要なんだ。もっとも、お前は理だけだからもっとダメだ。」と言われたことがあります。

 これ、どう解釈しても「お前には智慧がない」という意味ですよね。💦

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 一方で佐々井上人は「こいつは各宗派の教学についての知識が深いんだ」とも言ってくださりましたが、知識と智慧は違う、ということを言いたかったのかもしれません。

 智慧第一の舎利弗もお釈迦様に『法華経』の真理を教えてもらおうとした際には三度も拒絶されています。

「下手に『法華経』の真理を教えると増上慢に陥って地獄への大穴に落ちてしまうぞ!」byお釈迦様

 「知識」だけだと悟りを開くどころか、却って地獄に落ちる原因になりかねない訳ですね。

 さて、この舎利弗が登場するのは『法華経』だけではありません。『維摩経』にも登場します。

 私は山王神道(天台宗系の神仏習合)の聖地で現在も「神仏習合・万教帰一」の立場から阿弥陀如来や地蔵菩薩、観世音菩薩を祭神に加えている「宝蔵神社」で修行していたことがあるのですが、そこの長田忍先生は研修生に対して何十年も『維摩経』の講義をされています。

 『維摩経』は出家ではなく、在家の菩薩である維摩詰(ヴィマラキールティ)を主人公とするお経です。

 「○○菩薩」というと、ついつい「菩薩と言われるぐらいならば、エライお坊さんなんだなぁ」と思ってしまいがちですが、大乗仏教では菩薩行に出家・在家の区別はありません。

 インド仏教復興運動の祖であるアンベードカル菩薩も在家の信者(政治家)です。大乗仏教は僧侶だけの宗教ではない訳です。

 佐々井秀嶺上人も信者から「ワンダミ・バンテージ!」(尊敬します、上人様!)と言われると怒ります。「ナモー・ブッダ」(お釈迦様に帰依します)か「ジャイ・ビーム」(アンベードカルに勝利あれ)か、に言い換えさせます。

 バンテー(僧侶)だからエライ、と言うわけではないからです。だからこそ、大乗仏教では神仏習合もできるのです。

 「八幡菩薩」は応神天皇です。天皇陛下も菩薩として崇敬しているからこそ、各地の神社で八幡様が祀られて、今でも八幡宮に集団参拝する僧侶がいるのです。

 宝蔵神社も出家したお坊さんがいるわけでは、ありません。みんな「在家」です。在家のまま菩薩行を実践しよう、と言うのが宝蔵神社での修行でした。

 そんな「在家の菩薩」の元祖とも言うべきが維摩詰です。


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 維摩詰は優秀な実業家であって、おまけに菩薩行にも邁進している高徳の人物である、その維摩詰が病気にかかったと言うので、文殊止利菩薩以下お釈迦様の弟子たちがお見舞いに行きました。その中に舎利弗もいました。

 文殊菩薩が「どうして偉大な菩薩である維摩詰が病気になるのですか?」と聞いたところから維摩詰の説法が始まります。

 その説法の内容も深いのですが、長くなるので割愛すると、説法を聞いているうちに天女が上の方から花びらを降らせてきたのです。

 それを見た僧侶は驚きます。「具足戒」という戒律により、花びらを身に付けることを僧侶は禁じられています。それで「智慧第一」の舎利弗は一生懸命、花びらを剥がそうとするのですが剥がせません。

爾の時、天、舎利弗に問う、「何の故ぞ華を去る。」答えて曰く、「此の華、不如法なり、是を以て是を去る。」(『維摩経』「観衆生品」より)

 華などに心を奪われるのは「法」つまり「真理」(ダンマ)に反している、だから具足戒でも花で身を飾ることは禁じられている、それなのに天女はあえて誘惑するかのように花びらを降らす、するとそれについて天女は

「出家していても『これは如法だ、これは不如法だ』と言って物事を分別する、それこそが不如法です。」

と言い返します。これについて、宝蔵神社再興の祖でもある光明思想家の谷口雅春先生は次のように述べられています。

 この天女の言葉は、まことに素晴らしい真理を穿っているのであります。天女から雨ふらした花びらは、天女の誘惑の象徴であります。誘惑を誘惑とし、それから逃れようとするとき、却って誘惑は自分の身體について離れないということになるのであります。これは病気の場合でも同じことであります。誘惑も「道徳的病気」と観ることができます。「病気」を悪であると認めて、それから逃げ出そうと思って、「病気、病気、この病気を如何にして自分から引離そうか」とあせりましても、それは舎利弗が自分の身に膠着してはなれない天華を引離そうとして踠いても、いっこう、その天華がはなれなかったと同じように、「病気」は引離れないのであります。それは心に病気を描いているからであります。天華が善でも悪でもなく、人間の分別を超えて、「そのまま」であるように、病気も善でなく、悪でなく、人間の分別を超えた存在であり、病気を思い詰めれば、病気をはなそうと思ってもかえって膠着して離れないのであります。(谷口雅春先生『維摩経解釋』318~319頁)

 この後、天女は神通力で舎利弗を女性に変えてしまったり、明らかに舎利弗は天女に遊ばれているのですが、それはともかく「誘惑」にしろ「病気」にしろ、それを放そう、離そうとしている内は離れない、ということです。


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 そう言えば昨日、谷口雅春先生の孫で「国際平和信仰運動」指導者の谷口雅宣先生の講演会を聞きに奈良まで行ってきました。

 そこにはとある宝蔵神社の神職の奥さんが参加していて、私はその方とはかつて一緒に修行したこともある仲間ですから、隣に座って一緒に話を聞いていたのです。

 私は事情があり遅れてきたので雅宣先生の話をすべて聞いているわけではないのですが(私は先週も雅宣先生の講演会に参加していましたし)、その奥さんによるとこの日もとても素晴らしい講話だったそうで、遅れてきたことをやや後悔しています。

 もっとも、私が聴いただけでも素晴らしい話で、例えば肉食についてジビエや代替肉について質問が来た時に、雅宣先生は

「ジビエは環境問題の観点から、代替肉は命を殺さないという意味では、それぞれセカンドベスト、サードベストかもしれない。しかし、肉を食べるのを我慢するということでは、隠れて肉食をすることになるかもしれない。我慢するのではなく、自然に肉を食べたくないという風になってほしい。」

という旨のことを言われていました。「誘惑」というと女性からの誘惑や美しい華の誘惑もありますが、「肉食の誘惑」についても「我慢」するのではなく、本当に「肉食をしたくない」という心境になるのが肝要であると思います。

 今では菜食主義者の私も「肉を食べたい」と思っている内は、肉食をやめられなかったですから。(笑)

 さて、問題はその後であります。ある方からこんな情報を提供されました。

「日野君が神職の奥さんの○○さんといちゃついていたという噂なんだけど。」

 イチャツイテねぇわ!!ふざけんな!💢

 菩薩戒には「決して怒ってはならない。仮に親が殺されても怒ってはならない。」とあるのですが、煩悩深き私は自分の貞操が疑われると激怒します。直ちにこんなLineを送りました。

「取り敢えず、私と○○がいちゃついたとか言った奴、誰か判らないけど教えて!合法的乃至完全犯罪で抹殺してやる。

 得度しても何も変わっていない私に対して、とある女友達がこうアドバイスしました。

「そういう噂を流す人は、好きな女の子をいじめる小学生男子と一緒だから、過剰反応したら却って喜ぶ。笑ってやったらいい。」

「そんな哀れな人に強く当たらずにするのが聖人やね(他人事だから冷静に考えられるけど、自分だったら日野くんと同じように過剰反応すると思う)」

 なるほど、とこれで私も落ち着きました。それで床についても布団の中でも怒りの収まっていなかった愚禿・龍子は、ようやく眠りにつきました。

 「デマを流すな!」というのは「分別の心」「理の心」としては、正当な感情です。しかし、それだけでは却って「不如法」(仏法に反する)結果となってしまうのです。

 「理だけであってはいけない」と佐々井上人が教えてくださった訳ですね。


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