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2020年1月

2020年1月23日 (木)

『とある科学の超電磁砲』に嵌ってしまった


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 昔々、高校時代にとある有名なオンライン作家の方が、私の書く小説が『とある魔術の禁書目録(インデックス)』に似ている、と言われたのです。

 最初に言っておきますが、本題の『とある科学の超電磁砲(レールガン)』とは、別作品です。

 私はそれを聞いて「え?そんな有名作品に私の作風が似ている、って?社交辞令でも嬉しい!」と思ったのですが、実はその頃、私は『とある魔術』を読んではいませんでした。

 だって、ネットで『とある魔術の禁書目録』を検索すると、やたら女の子ばかり出てくる宣伝動画が出てきたりして、正直「これ、絶対、面白くない」という先入観を持っていたからです。

 で、昨年末、たまには古典的なアニメも見てみよう、と思い『とある魔術の禁書目録』をうかいやでレンタルしたのでした。

 感想は・・・うん、私の小説と確かに似ている面があるね!アニメと原作は違うとはいえ、原作がいろいろ詰め込まれ過ぎていることは、アニメ版を見ても判ります。

 だって、冒頭部分で主人公が御坂美琴とドンパチしているのに、ヒロインは御坂美琴じゃなくて禁書目録(インデックスなんかい!と、初回から作者にツッコみたくなるし、「魔術」と「超能力」という、特殊設定を二つも使っているのに主人公・上条当麻の中二病的なセリフな多すぎるせいで、物語の設定の把握が遅れるという副作用付きです。

 上条当麻の中二病的なセリフは、恐らく原作からでしょうから、ちょっと、原作者がミスっているよな、という感満載。

 未読の方のためにあらすじを紹介すると、こんな感じです。

超能力が科学的に解明された近未来。そんな世界の日本の東京西部に存在する、学園都市。そこでは人口の八割を学生が占め、最先端の科学技術と特別な教育カリキュラムにより、学生・生徒たちが超能力の開発に勤しんでいた。
主人公の高校生・上条当麻は超能力が「レベル0」の「無能力者」である上に、勉強もできない(中学生の御坂美琴に夏休みの宿題を手伝ってもらうレベル)劣等生であるが、何故か右手で他人の超能力を打ち消すことができる「幻想殺し(イマジンブレーカー)」という特殊能力だけは、持っていた。
そんな上条当麻の前に「インデックス(禁書目録)」を名乗る、幼女の姿をしたシスター(本人は大人の女性とみてほしいみたいだが、精神年齢も幼い)が現れる。超能力すら科学的に解明された学園都市では「宗教」や「魔術」は迷信だと思われているが、インデックスは自分が「魔術師」だと名乗る。そして、魔術師たちの世界に上条当麻は巻き込まれていく――

 で、冒頭部分で上条当麻が記憶喪失になるわ、魔術師一切無関係の超能力者同士の抗争が起きるわ、設定を把握しようとしているうちにストーリーがどんどん展開して行ってしまうのです。

 もっとも、だからと言って、駄作かと言うとそうではありません。面白いキャラクターもいますし、(作者の無知が露呈しているものもありますが)キリスト教に関する設定も興味深かったりします。

 「超能力が科学で解明された世界」という設定も、「魔法が科学で解明された世界」ならば『魔法科高校の劣等生』の例がありますし、「超能力は科学で解明できたけれど、魔術は解明されていない」等と言うのは興味深い設定だとは思います。

 だから、この作品の最大の失敗は、上条当麻の中二病気質もそうですが、インデックスがヒロインであることと言えるでしょう。題名が『とある魔術の禁書目録(インデックス)』なのにインデックスが活躍しない、これは作者の設定ミスと言わざるを得ません。

 しかし、それはインデックス以外の女性がヒロインらしい活躍をしていることが理由ですので、やはり多くのファンがいるだけのことはあります。様々な問題を抱えながらも、楽しめる内容になっているのは、作者の能力でしょう。

 特に御坂美琴については、最高のキャラだと思います。アニメ第三期では、上条当麻が随所随所で頼りにしているのは、御坂美琴です。

 アビニョンから御坂美琴に電話する場面なんか、御坂美琴のことを上条当麻が認めた瞬間みたいで、感動的でした。そもそも、その電話の内容は日本にいる人間であればだれでもよかったものなので、日本にいた親友の青髪ピアスよりも御坂美琴の方を上条当麻が大切に思っていることが示された場面でもあります。

 ネット上の考察サイトとかで既に述べられている場面ではあると思いますが、この場面では上条当麻が「幻想殺し」の正体について知らなかったことから「記憶喪失」が発覚します。つまり、上条当麻は「記憶喪失」になる前は「幻想殺し」という能力の正体を知っていたことが示唆されるのですが、私は原作しか読んでいないものの、アニメ化されていない新約部分の考察サイト等を見る限り、記憶喪失前の上条当麻がどのぐらい「幻想殺し」を知っていたか、についてはまだ原作でも出てきていないみたいです。

 さて、そんな御坂美琴が主人公なのが、『とある科学の超電磁砲(レールガン)です。今年に入ってから『とある科学の超電磁砲』も新シリーズがアニメ化されました。

 『とある科学』は『とある魔術』にあるような問題は、かなり解消されています。

・主人公が御坂美琴

・科学サイドだけが舞台の超能力者

ということで、設定も判りやすいですし、上条当麻の中二病気質も大分抑えられています。

 それどころか、白井黒子が百合色全開の面白キャラを貫いているので、笑いがかなり多い!

 ちなみに、ネット上で御坂美琴について「お嬢様学校なのにミニスカート」という考察サイトがありましたが、それは違います。

 かなり高速に厳しい全寮制中学校で、しかも、御坂美琴が服装について指導を受けている場面もなく(校則通り、野外でも制服。デートの際にも。)、さらに他の中学校の生徒がロングスカートであること、等から常盤台中学はミニスカートが校則であると推察できます。

 その理由については作中で述べられていませんが、学校の創立者か今の運営者かが特殊な趣味をお持ちなのでしょう。

 御坂美琴が特に露出の多い服を好みにしているわけではないことは、水着を選ぶ時の選択や、スカートの下に短パンを履いていることでも明白です。一方、白井黒子は御坂美琴の露出度を増やそうと企んでいるようですが、スルーされています。

 私は露出度の高い女性が嫌いで、リアルでもツインフレームが袖なしの服を着た姿をプロフにした際は「超美人が台無し・・・」と思ってしまったものですが、御坂美琴も露出度が低いからこそ、可愛いキャラを演出できていると思います。

 もしも白井黒子趣味の服でも着せられようものならば、正直、土御門元春の趣味の服装をさせられた神裂の末路のようなことになると思います。

 最近のラノベにはやたら露出度の高い女性が登場しますし、『とある魔術』もそう言う感じですが、『とある科学』はそういう悪癖を抑えていることも、長所です。

 学園都市の学校は意外に創立者なり運営者の変な趣味が反映されていると思います。

 例えば、繚乱家政女学校なるトンデモナイ名称の女子校があります。そこの生徒である土御門舞夏は超優秀なのに、なぜか「エリートメイド」を目指しています。普通、優秀な家政婦が目指すべきはハウスキーパーだろ!というツッコミが無いのはどうしてでしょうか?

 まぁ、日本はイギリス文学を翻訳する際に、本来「家令」とあるべきところを「執事」と誤訳してしまうことがある、という都市伝説のある国です。「ハウスキーパー」と「メイド」の区別がつかないアホがオタク界隈にいるのは理解していますが、専門の学校がそんな基本中の基本を理解していないはずがないので、校長が「ハウスキーパーよりもメイドだ!」という特殊な趣味をお持ちだとしか、思えません。

 あ、念のために言っておくと『アルプスの少女ハイジ』のロッテンマイヤーさんはハウスキーパーであってメイドではないからね!その程度の常識もない方が家政学校の教師陣にいるとは、思えません。(さらに念のために言っておくと、ここでいうハウスキーパーとは戦前の日本共産党にあった制度ではありません。)

 さて、話が逸れたので御坂美琴に戻しましょう。御坂美琴の魅力としては

育ちが良すぎる(着替えるためだけにホテルの部屋を二人分借りる発想と経済力)

高校生の夏休みの宿題を手伝えるレベルの超優秀な中学生

・実は料理が得意

→もっとも、お嬢様だけあってプレゼントには「一番高いクッキー」を選ぶ(「手作りクッキーが良かった」by上条当麻)

・人並み以上の正義感と交渉力

でしょうか。特に、超能力開発のために薬物を投与されているのに、全く精神がやられていないのは驚愕に値します。

 事実、御坂美琴は超能力が最高の「レベル5」なんですが、御坂美琴以外のレベル5は薬物投与の副作用か、みんな精神が逝かれているのです。

 御坂美琴の超能力には先天的な素質もあることが作中で述べられていますが、一方で、超能力がレベル5に到達するにはかなりの努力を必要としたようです。なお、超能力の傾向は先天的に決まっており、御坂美琴の場合は電気を自由自在に操る超能力です。

 なお、作中に重力系の超能力を使う人がいましたが、重力は電磁力よりもかなり弱い力であることを考えると、彼の方がパワー的には御坂美琴よりも上、というか、作者が完璧文系脳で理系の知識に欠けていることが推察されています。

 さて、御坂美琴は正義感から動く人間で、上条当麻みたいな中二病的な価値観は持っていません。

 中学二年生よりも中二病な高校生がいるのもどうかと思いますが、そうした御坂美琴の特色も『とある科学』を読みやすくしています。

 ただ、『とある科学』一番の見どころは白井黒子でしょう。

 私が小説で一番好きなキャラクターは『十二国記』の氾麟です。(アニメ版には登場していません。)

 一方、アニメだと間違いなく白井黒子です。いや、恋愛対象には絶対になりませんが。(黒子はレズビアンだし。)

 あの、御坂美琴への愛情は本当にすごい。ただ、あの変態趣味だけは・・・共感、できません。(笑)

 白井黒子はその致命的な変態趣味を除くと、一番感情移入しやすいキャラクターだと思います。

 「仲の良い友達に片想いした」というシチュエーションでの、片想いの気持ちをとてもリアルに表現しています。そして、白井黒子の恋愛感情に気付いていながら「大親友」として扱っている御坂美琴。恋愛あるあるですね。

 もしも、これが片想いしているのが男性だと「ストーカー」で終わりですが(黒子が男性でも美琴は親友扱いしそうですが)、百合キャラなので一気にコメディ化します。そういう意味でも、『とある科学』は最高の設定です。


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2020年1月16日 (木)

歴史家・原田実氏がどういう人物かを示す一例


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 ネット上で「江戸しぐさ」批判を始め、もっともなことを言うようになって信者を増やしている原田実氏ですが、彼の厚顔無恥さは「和田家文書」偽作説を未だに撤回していないことにも表れています。

 しかし、煩雑な歴史学上の議論をしてもついて行けない方もいるでしょうから、ここでもっと判りやすい例を挙げましょう。

 かつて生長の家が自民党への不支持を表明した際、原田実氏は次のようにツイートしていました。

 

 これ自体は正しいです。が、これ、実は「お前が言うな!」とツッコみたくなる代物なのです。

 というのも、その前年には原田実氏は日本会議について次のように述べています。

 

 そう、原田実氏は「事実が知られていなかったことの方に驚く」と言っていますが、自分自身が前年にはそのことを知らなかったのです。まさに、「自分のことを棚に上げて他者を批判する」という、学問を志す上での見事な反面教師です。

 というか、この件については原田氏が意図的にデマを流したと言えないこともありません。

 

 このツッコミをしたのは高校生時代の私ですが、原田実氏はこの後、私からのツッコミはスルーした上で、発言を撤回するわけでも訂正するわけでもなく、明らかに事実に反するツイートをします。

 

 

 

  「1990年代の政界再編」という、明らかに無関係の話が唐突に飛び出しました。冒頭のツイートで原田実氏は「1980年代から教団としての政治活動(具体的には自民党への選挙協力)をやめている 」と述べていますから、これは事実関係を知らなかったというよりも、明らかにデマと判っていっているのです。

 何しろ、これは単なる年代のミスではありません。1980年代に「政界再編」など、存在しなかったわけですから、御表記ではなく意図的なデマであると考えた方が妥当です。

 仮に百万歩譲って「勘違い」だとして、自分自身が過去の間違いを撤回も訂正もしていないのに、自分自身が間違えた情報を「知られていなかったとは驚く」等という厚顔無恥さは、人間性に問題があると言わざるを得ません。


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2020年1月13日 (月)

「多神教」ではなく「一神教」で考えないと


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 先日、「神道は多神教ではない」という簡単な理由という記事をnoteに公開したけれど、あまりピンと来ない方が多かったみたい。

 誤解を恐れずに言うと、「多神教」なんかカルトですよ・・・いや、炎上する前にあんたら、本気でgodが沢山いると思ってる?という話なんです。

 と、初っ端に炎上商法的なことを言ってしまい、すみません。

 私が言いたいのは、godが沢山いる宗教と言うのは、寛容でも素晴らしいことでも、何でもない、ということです。

 神道で礼拝する神々と言うのは、「一神教」「多神教」と言う時の「神(god)」では、ありません。

 そういう「神(god)」が多数いる宗教と言うのは、例えば、ヒンドゥー教があります。ヒンドゥー教には33億もの神様がいます。

 「多神教は寛容だ!」と思っている皆さん、ヒンドゥー教は全然寛容ではありませんから。

 あ、念のために言っておくと、中には寛容な方もいますよ。何せ、仏教徒よりも人口が多いとされているヒンドゥー教徒ですからね。

 だけど、異教徒立ち入り禁止の寺院は珍しくないし、今でも元不可触民は参拝できない寺院もあるし、「多神教だから寛容」と言う訳ではないことは明白です。

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 そして、インドでカースト制度に否定的だったり、他宗教との融和に積極的だったりするヒンドゥー教系の宗教家は「ヴィシュヌ一神教」「シヴァ一神教」の立場だったりするわけです。

 いずれにせよ、崇拝と言うのは定義的には

宗教的対象に自己の救済一切をまかせ願求する心をもって、対象を敬いあがめること。

なので、そんな「宗教的対象」が二つも三つも八百万も三十三億もあったら、それはもう、異常な状態なんです。

 仏教ではそうした問題を「全ては一体である」という観点で解決しています。

 だから、仏教は多神教ではなく、一神教なんです。


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2020年1月12日 (日)

村岡典嗣先生の國體論

 


 日本思想史学の創始者であり、國體学者でもあった村岡典嗣先生は、いわゆる「天皇崇拝」が「明治以降の産物」であるとする欧米の研究者の主張に激しく反論していたことは、今では知られるようになっている。(畑中健二「村岡典嗣と「天皇」」参照)

 しかも、村岡先生はこの「天皇崇拝」を「国民精神の歴史」と捉えていた。そのことが、「文献史学者」としての村岡先生のイメージにはそぐわない、と考える方も多いようである。(畑中論文参照)
 念のために言うと、村岡先生は「国家神道は明治維新以降に成立した新宗教である」ということ自体を否定したわけではなく、古代から天皇崇拝の理念につながるものは存在した、ということである。
 事実、「天皇崇拝」を権力者の創作であるとするならば、どうしてこれまで「反体制」的な勢力の人間が「天皇崇拝」を掲げてきたのか、説明がつかなくなる。日蓮聖人の天皇信仰についての研究も進んだ今、村岡先生の慧眼の正しさを疑う者は少数派であろう。

 無論、村岡先生の「國體論」とは「日本文化だけが素晴らしい」という意味ではなかったことは、明白である。大東亜戦争の最中、学生が皇暦で記した資料を全て西暦に直した逸話まである。

 そういう方の研究された「日本思想史」だからこそ、意味があるともいえる。

 日本を尊重するということは、権力に媚びることでもないし、他国のもの(西暦等)を否定することでもない。村岡先生はそうした姿勢を貫かれたからこそ、主観的になりやすい「思想史」という分野において、客観的な学問の方法を確立されたのだと思う。

 最近の「日本」についての文章を読むと、一方では日本を貶めるものがあり、もう一方では他国を貶めるものがあり、ネット上の文章が極端なのは仕方ないが、アカデミックの方が書いた文章でさえ、失礼ながら著者の主観が入り込み過ぎているとうんざりすることは多々ある。

 特に「神仏習合」や「国家神道」等について調べた際には、何度もうんざりしたものだ。

 村岡先生のような方のような「國體」「日本」観はいつの時代においても必要なものであるが、特に現代のような変動の時代にはおいてはより必要であろう。

 

2020年1月11日 (土)

日本で最初のお地蔵さまは三蔵法師の弟子が創建


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 私は京都地蔵文化研究所の研究員をさせていただいておりますが、実はお地蔵様への信仰、かなり古かったりします。

 日本で最初のお地蔵様を祀るお寺は、奈良県の矢田寺です。もっとも、お寺の公式サイトにもあるように、今の時代に一般的なお地蔵様とは若干の違いがあります。

日本のお地蔵さま発祥の地

お地蔵様とあじさい

「矢田のお地蔵さん」で親しまれている矢田寺(矢田山・金剛山寺)は、 城下町・郡山より西へ3.5キロ、矢田丘陵の中心矢田山の中腹にあり、 日本最古の延命地蔵菩薩を安置しています。
今から約1300年前、大海人皇子(おおあまのみこ…後の天武天皇)が、 壬申の乱の戦勝祈願のため矢田山に登られ、即位後の白鳳4年、智通僧上に勅せられ、 七堂伽欄48カ所坊を造営されたのが当山の開基です。
当初は十一面観世音菩薩と吉祥天女を本尊としていましたが、 弘仁年間に、満米上人により地蔵菩薩が安置されて以来、地蔵信仰の中心地として栄えてきました。

 

お地蔵さんは...

お地蔵さんは、一般的に子供を守る仏様だと思われていますが、 もともとは、仏教が生まれるよりもっと古い時代に信仰されたインドの「大地の神様」が起源で、 「地上に存在する生命あるものの全てをやしなってくださる者」という意味を持っています。
正式には「地蔵菩薩」という名前で、 梵語では「クシチガルブハ」という難しい呼ばれ方をします。 お釈迦様が亡くなってから、弥勒菩薩が悟りを開かれて法を説かれるまでの56億7千万年の無仏の間に出現され、 その身を種々の姿に分身して衆生を救済することが、お地蔵さんの使命とされています。

 

お地蔵さんの型

各地のお地蔵様の多くは、右手に杖、左手に如意宝珠を持たれているスタイルなのですが、 矢田寺のお地蔵様は、そのほとんどが右手の親指と人差し指を結んだ独特のスタイルで、 「矢田型地蔵」と呼ばれています。
その姿が、あたかも阿弥陀如来の来迎印のようであることから、 このスタイルのお地蔵様は、地蔵・阿弥陀両方の功徳を備えておられると言われています。
また他にも、お地蔵さんには、何も持たない型や、勝軍地蔵と称する、 鎧甲に身をかため、馬に乗って幡をひるがえす、勇ましい像もあります。

 このお寺を創建された智通というお坊さんは、なんと玄奘三蔵法師の弟子です。

 あまり知られていませんが、『西遊記』で有名な玄奘三蔵法師には遣唐使で派遣された日本人が弟子入りしていたんですよ~。

 実は古代の日本は一般で思われているよりも国際的なんです。よく、トンデモ本とかで「日本にはネトリウス派キリスト教が伝来していた!」とか「真言密教にはゾロアスター教の影響がある!」とか言うのが記されていますが、実はそれとて完全に間違いとは言い切れません。

 というのも、イラン人の官僚が奈良時代の日本にいたことは『続日本紀』からも平城京出土木簡からも確実だからです。

 当時のイランはササン朝ペルシアで、その時の国教はゾロアスター教ですし、一部にはネストリウス派キリスト教の信者もいましたから、件のイラン人官僚もそのどちらかの信者であることは明白。ただ、こうした宗教が日本で受容されていた、とするだけの根拠が充分でないだけです。

 いずれにせよ、今の日本にはネストリウス派やゾロアスター教の寺院はありません。ただ、大乗仏教がゾロアスター教の影響を受けているのは事実です。阿修羅さまも元々はゾロアスター教の神様です。

 その点、仏教については三蔵法師直系の寺院がそのまま日本に今でも残っているわけで、これは凄いことです。

 実は玄奘三蔵法師の法相宗は、肝心の中国では亡んでいます。まるで、三蔵法師の旅って、日本のためにしてくれたかのようですね。(笑)

 そして、お地蔵様への信仰も日本が一番盛んです。お地蔵様はインド発祥ですが、インドでは仏教自体が衰退しましたし、中国でも地蔵信仰はあまり盛んではありませんでした。

 日本発祥でなくとも、日本で発展したというのは、立派な日本文化なんだと思います。インドや中国よりも、日本の方がお地蔵様と相性のあう「何か」があったのでしょうね。

 


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古田武彦先生の「皇=九州王朝の(死せる)歴代王者」論への疑問


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 『万葉集』に柿本人麻呂の次の歌がある、とされている。

大君は神にし座せば天雲の雷の上に廬らせるかも

 これは「大君(大王、天皇)」は現人神であるから、雷丘の上に宮を造られたのである、という風な意味に解釈されてきたが、雷の丘の規模を考えても「神にし座せば」と「雷の上に廬らせるかも」とが、どうもしっくりこない。

 無論、言葉遊び的な意味で「流石は陛下、あの(天空の)雷の上に宮殿を造られるとは!」とうたった、と言う解釈もあるけれども、そうだとすると何とも「白々しい」歌になってしまう。

 これについて古田武彦先生は『古代史の十字路』で、まず

(すめろぎ)は神にしませば天雲の雷の上に廬らせるかも

と読んだ。「大王」と「皇」の違いに着目したのである。

 そして、この「雷」を「邇邇芸命」を始め「九州王朝」の祖先神を祭祀している「雷神社」のある、筑前の「雷山」のことである、とした。

 そこまでは私も「なるほど」と思う。だが、その後の「結論」には異論がある。

 この雷山の上宮の祭神である神々、すなわちニニギノミコトや「天神七社」「地神五社」の神々は、(かつては生ある王者であったが)今や死者となり、「神」となっておられるので、の意となろう。(古田武彦『古代史の十字路』204頁)

 つまり、「皇」を「歴代の(九州王朝の)王者」のことである、としたのである。

 ここは「大王」ではなく、「皇」であるから、「おほきみ」ではない。「すめろぎ」だ。“代々の王者”“皇統の中の、各王者”を指す。(同書、200頁)

 しかし、私は「すめろぎ」という言葉に「代々の王者」という意味があることを、知らない。ましてや、「各王者」という言い方は不可解である。

 『日本書紀』に「天祖」という言葉で「邇邇芸命」を表現した例は、ある。しかし、単に「すめろぎ」と言えば「天神七社」や「地神五社」の神々を指す、という用例はあるのだろうか?

 古田先生は「明治神宮」や「乃木神社」等の例を挙げて

 以上のような、通例の、そしてもっとも自然な「使用慣例」に立ってみるとき、この「皇(すめろぎ)」とは、“死せる王者”であり、それ故、今「神」として祀られている。そのように理解すること、それがもっとも自然な理解だ。わたしにはそう思われる。(同書、201頁)

と述べているが、それは失礼ながら古田先生の「主観」に過ぎないように思われる。

 そもそも「死せる王者」を「神」として祀るのは、近世以降の“伝統”ではなかろうか?

 豊臣秀吉の「豊国神社」や徳川家康の「日光東照宮」がそれである。それ以前に「死せる王者」を「神」とする伝統があった、とは思えない。

 私は、日光東照宮はあまり好きではない。「武力」で全国を統治した、江戸幕府の創始者を「神様」として拝む、そんな「権力者への媚売り」としか思えない“信仰”は、私の嫌うところである。

 一方で「明治神宮」や「豊国神社」には“好き好んで”参拝するから、不思議なものだ。要は“死せる王者”だからではなく、“崇敬に値する王者”だから参拝している、ということである。

 「橿原神宮」も「近江神宮」も「近代」の創建である。例外的に「八幡菩薩」への信仰はあるが、これとて“死せる王者”だから「神」と祀った、と言うよりも「応神天皇は釈迦牟尼如来(或いは、阿弥陀如来)の垂迹(化身)である」という「信仰」が元である。

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 つまり、「八幡菩薩(応神天皇)」は「生きているとき」から既に「仏の垂迹」であった、と言う訳であり、「死せる王者」だから「神」になった、と言う訳ではない。

 また、今でも「橿原神宮」や「近江神宮」「明治神宮」を参拝される方は、例えば、橿原神宮を参拝する際に

「神武天皇陛下はご存命の時は“ただの人”であったが、亡くなると“神様”になった。」

等と言うつもりで崇敬しているのだろうか?「死せる王者」だから「拝む」が、「生きている間」は拝まない、そんなことがあるだろうか?

 無論、先祖の霊を「祀る」週間はあったが、それは「王者」であるかどうかは、関係ない。

 要するに、ここでいう「皇」というのを「代々の王者」等の意味というには、如何にも「疑問の余地」が“ありすぎる”のだ。

 そもそも、現に「すめらみこと」と呼ばれている「天皇」その人ではなく「過去の誰かの総称」として「皇」を使うのは、変ではないのか。単に「社長」と言えば「現、社長」であって「歴代の各社長」等という意味では、無いはずである。

 そもそも、邇邇芸命の時代に「皇」等と言う「漢字」の称号は、無かったはずである。甕依姫(卑弥呼、俾弥呼)の時代でも「倭王」が称号であり、「皇」が称号になったのは遥か「後世」のはずだ。

 要するに、柿本人麻呂は当時「皇(すめろぎ)」と言われた九州王朝の“崇敬に値する王者”を「神」と呼んだのであり、決して“代々の王者”一般を指して「皇統の中の、各王者」を纏めて「皇」と呼んだのではない、ということだ。


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2020年1月 6日 (月)

財産と職業の世襲――貴族制度は是か非か


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 現在、我が国で「世襲議員」と言うとあまり良いイメージがありません。

 しかしながら、我が国は「世襲」大国であります。何よりも、「天皇陛下」からして「皇位は、世襲のものであ(『日本国憲法』第2条)るとされているわけです。伝統芸能や宗教の世界でも世襲が多いし、政治や経済の世界でも世襲はあります。

 また、職業の世襲もあります。塾で教えている子供、親が看護師だと看護師を目指す、医師だと医師を目指す、と言う例は決して少なくありません。

 そして、財産の相続。これも言い換えれば「財産の世襲」です。

 かつて律令国家の頃の日本は『班田収授法』が施行されており、財産を相続すること自体は認められていましたが、当時の重要な資産である「農地」については、亡くなると政府に没収されていました。しかし、それによって格差の拡大を防いでいた、と言う面もあります。

 『墾田永年私財法』により私有財産の所有と世襲が全面的に認められると、資産の貴族階級への集中が始まりました。我が国は「院宮王臣家」という一握りの特権階級に支配され、やがてそれへの反発で武士が武力により政権を奪うのです。

 そして、その武士も江戸時代になると世襲制になり、あらゆる職業は世襲となりました。田畑については売買が禁止されたため、財産の世襲も強化されました。

 この江戸時代は、とても安定していた時代でした。世襲には世の中を安定させる、というメリットがあります。

 皇室祭祀も世襲でなければ継承されていなかったでしょう。先祖供養と言うのも、古代から先祖を崇敬する風習はどこの国にでもありましたが、我が国のように定期的にお寺さんを呼んで供養するようになったのは、江戸時代以降のことですから、「世襲」と「祭祀」と言うのは密接に関係しています。

 かなり儀式が簡略化された現代でも、冠婚葬祭には莫大な費用が掛かります。冠婚葬祭を恙なく行うにはそれなりの資産が必要ですし、また「家族の一体感」のようなものも必要です。親子の肉親の愛情がなければ、お葬式に何十万円もお金をかけることなど、到底できません。

 冠婚葬祭を始めとする祭祀と言うものを継承するには、やはり世襲が必要なのです。

 人間は「利害」を語っても争いが起きますが、「正義」や「善悪」を語っても争いが起きます。「正義の基準」や「善悪の基準」も人によって違うのですから、それは当たり前のことです。

 ならば、人間が争わない社会にするためには、「利害」でも「正義」でも「善悪」でもなく、「愛情」を基盤に置く必要があります。そして、「愛情」の雛形となるのが「家族愛」です。この「家族愛」を形に表したものが「世襲」なのです。

 一方、こうした世襲にはデメリットもあります。「財産」の世襲は格差拡大を齎しますし、「職業」世襲は職業選択の自由を妨害します。

 中でもインドのカースト制度のように「職業世襲」が「差別生産」の基盤となっている例もあります。こういった形での世襲は排除しなければなりません。

 一方で、伝統芸能や宗教家(社家、等)の世襲は、公益のあるものの継承を目的としており、公益性のある伝統の継承という意味では、皇室に近い存在です。そういった家系を一種の貴族制度として保護することは、私は悪いことであるとは思いません。

 そうすると、問題になってくるのが政治家の世襲です。政治には安定も変革もどちらも必要ですが、我が国の風土では過度に安定を望む有権者により、世襲議員がやたら多いのが現状です。

 ならば、国会を「衆議院」と「貴族院」とに分けて、衆議院では世襲を厳格に禁止し、貴族院は世襲の政治家による「権力無き貴族院」とするのが適切でしょう。

 さて、世襲の弊害を除去するためには、職業選択の自由の高度な保証が必要であり、そのためには高等教育や専門教育を誰でも受けられる環境にする必要があります。そのためには、高等教育無償化が必要でしょう。

 モンテスキューは貴族制度を擁護しましたが、貴族制度については今回触れたような観点を含めて議論する必要があります。


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