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2020年1月12日 (日)

村岡典嗣先生の國體論

 


 日本思想史学の創始者であり、國體学者でもあった村岡典嗣先生は、いわゆる「天皇崇拝」が「明治以降の産物」であるとする欧米の研究者の主張に激しく反論していたことは、今では知られるようになっている。(畑中健二「村岡典嗣と「天皇」」参照)

 しかも、村岡先生はこの「天皇崇拝」を「国民精神の歴史」と捉えていた。そのことが、「文献史学者」としての村岡先生のイメージにはそぐわない、と考える方も多いようである。(畑中論文参照)
 念のために言うと、村岡先生は「国家神道は明治維新以降に成立した新宗教である」ということ自体を否定したわけではなく、古代から天皇崇拝の理念につながるものは存在した、ということである。
 事実、「天皇崇拝」を権力者の創作であるとするならば、どうしてこれまで「反体制」的な勢力の人間が「天皇崇拝」を掲げてきたのか、説明がつかなくなる。日蓮聖人の天皇信仰についての研究も進んだ今、村岡先生の慧眼の正しさを疑う者は少数派であろう。

 無論、村岡先生の「國體論」とは「日本文化だけが素晴らしい」という意味ではなかったことは、明白である。大東亜戦争の最中、学生が皇暦で記した資料を全て西暦に直した逸話まである。

 そういう方の研究された「日本思想史」だからこそ、意味があるともいえる。

 日本を尊重するということは、権力に媚びることでもないし、他国のもの(西暦等)を否定することでもない。村岡先生はそうした姿勢を貫かれたからこそ、主観的になりやすい「思想史」という分野において、客観的な学問の方法を確立されたのだと思う。

 最近の「日本」についての文章を読むと、一方では日本を貶めるものがあり、もう一方では他国を貶めるものがあり、ネット上の文章が極端なのは仕方ないが、アカデミックの方が書いた文章でさえ、失礼ながら著者の主観が入り込み過ぎているとうんざりすることは多々ある。

 特に「神仏習合」や「国家神道」等について調べた際には、何度もうんざりしたものだ。

 村岡先生のような方のような「國體」「日本」観はいつの時代においても必要なものであるが、特に現代のような変動の時代にはおいてはより必要であろう。

 

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