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2020年2月

2020年2月29日 (土)

九州王朝の存在証明について

九州王朝の存在証明について


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 私は九州王朝説論者ですが、九州王朝が存在するという理由について、今再び明確にしておく必要があると思います。

 九州王朝説はその原型となる仮説は本居宣長以来多くの研究者が提唱してきましたが、体系化したのは古田武彦先生でしょう。古田先生の論文「多元的古代の成立」は『史学雑誌』にも掲載されたので、学説としての九州王朝説を提唱したのは古田先生であると言って問題ないと考えます。

 しかしながら、ネット上の自称九州王朝説論者のブログやツイッター等を見るとあまりにも稚拙な立論が少なくなく(特に福永伸三氏等)、それを元に九州王朝説を学説ではなくトンデモ説の一つだと誤解されている方も多いようです。

 なので、今一度、九州王朝説について論点を整理してみようと思います。


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論理の構造

 九州王朝説の論理は次の二段階構造です。

A 中国史書等に見える「倭王」「俀王」は大和政権の歴代天皇のことではない。

B その「倭王」「俀王」は(天孫降臨から続く)九州王朝の君主である。

 これに付随して「大和政権の大王は九州王朝の分家である」という命題(つまり、九州王朝こそが日本列島を代表する政権であった)や「当時の日本列島上には様々な政権があった」という仮説も唱えられており、これらを総称して「多元的古代史観」と言います。

 しかし、その根幹となるのは「A」「B」の主張であることには、変わりません。この二点が否定されると、九州王朝説はなりたたなくなります。逆に、他の主張が否定されても九州王朝説の論理構造の根幹は崩れません。

 ここで「他の主張が否定されても」と言いましたが、要するに、福永伸三氏みたいな(彼には限りませんが)稚拙な九州王朝説論者の主張をいくら論破しても、「A」「B」の主張を否定しない限り、九州王朝説自体を否定したことにはならないのです。

 古田先生の仮説自身、かなり「変化」している部分は多い訳ですが、「A」「B」の根幹部分には全く変化がありません。(当然です、でないと九州王朝説は消滅します。)


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第一「邪馬壱国」問題

 『魏志』「倭人伝」の現存する全ての写本・版本には所謂「邪馬台国」は「邪馬壹国」と記されています。現代字だと「邪馬壱国」です。これだと「ヤマト」とは発音できません。

 と、いう事に古田先生は拘られましたが、そもそも通説通り「邪馬台国」の旧字体である「邪馬臺国」でも結論は同じです。「台」を「ト」と発音した例はないこともないのですが、「邪馬台国」の「台」はあくまでも「臺」が常用漢字でないから便宜上使われているだけであって、本来は別字である「臺」です。そして「臺」を「ト」と発音した例はありません。

 なので「邪馬台国=ヤマト国=大和国」とする仮説には全く根拠がありません。

 そして、『魏志』「倭人伝」では「帯方郡」(今の平壌近辺)から「邪馬壱国」まで「一万二千里」とあります。これを「一里=約500メートル」と解釈して「邪馬台国はどう考えても遥か南海の上に没してしまう」と解釈する方もいますが、それは誤りです。

 というのも、この「一万二千里」の内「七千里」は「帯方郡」から「狗邪韓国」(今の釜山近辺)までの行程です。

 そう考えると、距離の比率的にも「邪馬壱国」所謂「邪馬台国」は九州に収まると考えるのが自然です。「邪馬台国」をあえて「大和政権」に結びつける積極的根拠はないのです。

 そもそも、仮に「邪馬台国=大和政権」としましょう。邪馬台国畿内説論者の多くは纏向遺跡が卑弥呼の宮殿であるとしていますが、それならばそのことが『古事記』『日本書紀』に全く掲載されていないのはオカシイのです。『古事記』『日本書紀』には纏向には崇神天皇や垂仁天皇、景行天皇の宮殿があったと記されています。

 要するに、『古事記』『日本書紀』に記された「大和政権」と『魏志』「倭人伝」に記された「邪馬壱国」とは、あまりにも「不一致点」が多すぎるのです。それを強引に「同一の政権」と言えるのか、という問題です(Aの論点)

 それよりも、素直に「邪馬壱国九州説」で良いのではないか(Bの論点)、これが「九州王朝説」のそもそもの出発点です。


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第二「倭の五王」問題

 次の論点は「倭の五王」です。通説では「倭の五王=大和政権」となっていますが、まず『宋書』における倭の五王の年代と『古事記』『日本書紀』における歴代天皇の年代とは、『古事記』『日本書紀』のいずれの記録を根拠にしても完全には一致しません。

 もっとも、『古事記』『日本書紀』には当時の天皇が百歳以上生きていたと記しています。例えば、『古事記』には雄略天皇が「124歳」で崩御されたと記されていますが、こういう記事を見ると『古事記』『日本書紀』の編年は信用できない、実際よりも長く記されているに違いない、という反論もあって可笑しくはありません。

 そう言うことで、定説では倭の五王である「讃」「珍」「斉」「興」「武」の内、「斉」「興」武」については比較的年代の後差も少なく、系譜の矛盾もない次の天皇に比定されています。

斉 允恭天皇

興 安康天皇

武 雄略天皇

 が、これには大きく二つの問題があるのです。


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◆其の一「讃・珍」問題

 『宋書』には倭の五王の内、最初の讃とその次の代の珍とは兄弟である、と記されています。ならば「斉=允恭天皇」を前提すると、讃と珍はその直前に即位した兄弟の天皇であるため、

讃 履中天皇

珍 反正天皇

と、なります。しかし、これだと年代について無視できない矛盾が生じます。

 というのも、讃(賛)は東晋の義熙九年(413)に既に朝貢しています。宋書に登場する元嘉二年(425)まで、少なくとも足掛け13年は在位していたことになります。さらに、次の珍は元嘉十五年(438)に貢献し、受号している(宋書文帝紀)ので、讃・珍の二代の在位年数の合計は少なくとも26年以上ということになるのです。無論、これはあくまで史書に載っている期間ですから、載っていない期間を含めるともっと長い可能性も十分にあります。

 ところが、履中天皇と反正天皇の合計在位年数は『日本書紀』によるとたったの11年です。『古事記』『日本書紀』の年代が信用できないというのは、『古事記』『日本書紀』における歴代天皇の在位年数が実際よりも長くなっている、という指摘であって、『古事記』『日本書紀』の編者にあえて在位年数を短めに記録する動機はありません。

 そのことから、つぎのような仮説も生まれました。

讃 仁徳天皇

珍 履中天皇

 また、つぎのような説もあります。

讃 応神天皇

珍 仁徳天皇

 しかし、これらの天皇はいずれも「親子」の関係であって「兄弟」ではないので、この仮説は『宋書』の記事と矛盾します。

 つまり、どちらの立場であっても『宋書』の倭の五王の記事と『古事記』『日本書紀』の史料状況との間の矛盾を解消できないのです。


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◆其の二「獲加多支鹵大王」問題

 さらに定説では「稲荷山古墳出土鉄剣銘文」における「獲加多支鹵大王」を「雄略天皇」のことである、としています。しかし、それだと「倭王武=雄略天皇」という定説の大前提と矛盾します。

 というのも、「稲荷山出土鉄剣銘文」は西暦472年の成立です。しかし、倭王武は西暦478年の即位です。477年はその前の倭王興の時代です。

 どうしてそう断言できるのか。『宋書』「倭国伝」には倭王武が西暦478年に朝貢してきたことしか記されていませんが、『宋書』「帝紀」には

(大明6年=西暦462年、三月)壬寅、倭国王の世子、興を以て安東将軍と為す。

(昇明元年=西暦477年)冬十一月己酉、倭国、使を遣わして方物を献ず。

(昇明2年=西暦478年)五月戊午、倭国王武、使を遣わして方物を献ず。武を以て安東大将軍と為す。

とあり、これを素直に読むと昇明2年が倭王武の初出ですから、昇明元年、つまり西暦477年に朝貢してきた倭王は明らかに倭王興です。そうだとすると、西暦472年にはまだ倭王武は即位しておらず「雄略天皇=倭王武=獲加多支鹵大王」という等式は成立しません。


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 上記二点を始めとする問題により、倭の五王は歴代天皇とは一致しないのです(Aの論点)。それでは誰なのか。

 邪馬壱国が九州だとすると、その後継者である倭の五王も同様に九州であって何も可笑しくありません(Bの論点)。そのため、九州王朝説論者は「倭の五王九州説」を唱えますし、こうした説自体は本居宣長以来多くの論者が唱えてきました。

 但し、この仮説の問題点は「当時、大和政権が九州を支配していたこと」が論証されると前提が崩れてしまう、ということです。そのため、九州が大和政権に支配されていないことの論証も別途必要になります。


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第三「熊襲・筑紫君、不支配」問題

 『古事記』『日本書紀』には九州には「熊襲」と呼ばれる独自勢力が存在しています。なお、後世において熊襲は南九州の支配者として描かれていますが、『古事記』『日本書紀』を読む限り「熊襲」は北九州も勢力下に収めています。

 さて、『古事記』『日本書紀』においては大和政権がこうした九州の勢力と激突した記録が3つあります。

α 倭建命の熊襲建暗殺(『日本書紀』では加えて「景行天皇の九州大遠征」)

β 仲哀天皇の熊襲征伐

γ 筑紫君磐井の乱

 ところが、いずれも注意深く読むと大和政権は九州を平定できていません。

 まず、αですがあくまで「暗殺」記事です。次にβで倭建命の息子の仲哀天皇が「熊襲征伐」をしていることからも、倭建命の「暗殺」で九州が平定されなかったことは明白です。(このことから「景行天皇の九州大遠征」もその史実性を疑われ、古田先生はこれを本来「九州王朝の九州統一」の記録の主語を入れ替えて盗用したものである、と論証しています。)

 そしてβについても仲哀天皇は『古事記』及び『日本書紀』本伝だと「神の怒りによって崩御した」とあり、『日本書紀』の異伝では「敵の弓矢に当たって戦死した」とあります。どこにも「戦勝」の記録はないのです。

 このことから、実は大和政権が倭の五王の時代に九州を平定していたとする根拠はないことになります。また、γの磐井の乱についても大和政権側は「糟屋の屯倉」を筑紫君から献上されることによって和解をしており、完全に九州を支配下に置いた訳ではありません。

 以上のことは邪馬壱国以来の九州王朝が倭の五王の時代にも大和政権に滅ぼされずに続いていたことを示すのであり、Bの論点を裏付けます。


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第四「分流政権」問題

 そもそも、大和政権の初代天皇である神武天皇は九州から大和に東征しています。そして、先述の通り神武天皇の子孫である大和政権はその後、九州を支配できていない訳です。

 このことは何を意味するのか。大和政権がいわば九州王朝の「分家」であった、とするのが一番自然な解釈です。


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第五「多利思北孤」問題

 『隋書』「俀国伝」(通説では「俀国」は「倭国」の誤字とする)では、隋に「対等外交」を迫った「俀王」(中国側の呼称)である「多利思北孤」(自称「日出づる處の天子」)は、大和政権の「推古天皇」乃至「聖徳太子」とすると矛盾が多すぎます。

 まず、『隋書』「俀国伝」の「多利思北孤」は「後宮」を持っているなど、明らかに「男性」です。また「聖徳太子」にしてもそのような後宮を持っていた記録はありません。

 さらに、実は『日本書紀』には「遣隋使派遣」の記事はありません。『日本書紀』に記されているのは全て「遣唐使」です。さらに、その内容も「」「朝貢外交」です。これについては四月に古田史学の会から出版予定の『『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独 ―消えた古代王朝―』に収録予定の私の論文「『日本書紀』十二年後差と大化の改新」で詳しく論じたので、ご一読いただくと幸いです。

 要するに、ここで重要なのは『日本書紀』の記述と『隋書』「俀国伝」の記述が一致しない、ということです(Aの論点)。それでは「俀国」はどこなのか。『隋書』「俀国伝」には「阿蘇山有り」とあり、隋の使者が九州に来たことは確実です。そして、その後他の地域に言った記録はないので(特に大和まで行っていたならば『日本書紀』との矛盾を説明できない)、九州王朝と解釈するのが妥当なのです(Bの論点)


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 九州王朝説の「傍証」は他にもありますが、九州王朝説の「根幹部分」については以上がほぼ根拠となっている論点です。

 以上のことを前提にすると、例えば『古事記』『日本書紀』にある不自然な記述は九州王朝の存在を前提にすると解けるのではないか、或いは中国史書に限らず金石文や他の古文書・伝承と『古事記』『日本書紀』の内容が矛盾している場合は大和政権ではなく九州王朝のことを記しているのではないか、等という仮説が出てきます。(後者の典型が木簡から存在が証明されている「評制」や『二中歴』掲載の古代年号が九州王朝の制度ではないか、と言うものです。)

 逆に、こうした仮説もここに述べたような論点が全て否定されると成り立たなくなるわけです。なので、冒頭に述べた「Aの論点」「Bの論点」が九州王朝説の根幹部分であり、否定派はまずその根幹部分を否定しないと水掛け論になりますし、肯定派はこの根幹部分に対する否定意見に反論しつつ、それらを補強するような「傍証」を集めていくことによって議論を深めていくことになります。

 それを無視した九州説の是非を巡る議論には全く学問的価値はありません。


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2020年2月23日 (日)

不徳の致すところ


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 先祖供養をしている最中、私の脳裏に浮かんだ一言、それが「不徳の致すところ」という言葉だ。

 私は気が短い。そんな私を抑えているのは、私情で争うことはならぬという道徳律である。

 しかしながら、それを裏返すと、私怨のある相手が公に関する罪を犯していると、これまで我慢していた分、思う存分、その人物を責めてしまう悪い癖がある。

 基本的に、私は人を嫌うことはない。相手が一方的に自分を嫌っているだけ、ということが多くの場合なのであるが、一方的に嫌われるというのはこちらにストレスが溜まり、その相手が公の秩序を乱すような言動を行うとついついストレス発散の好機に感じてしまうようである。

 だが、今日の先祖供養の最中にそれではいかぬというのが脳裏に浮かんだ。ご先祖様の導きであるのかもしれない。どんな悪党であれ、私と縁あるすべての衆生の罪は、私の不徳の致すところなのである。

 私の所属する国際平和信仰運動団体の今月号の機関誌には、光明思想家・谷口雅春先生の著書『新版生活の知恵365章』から次の言葉が引用されていた。曰く――

 温かい太陽の日射しにおかれた縁側にある鉢植の梅がもうふくらんで、二、三輪ひらいている。しかし霜に覆われた庭の梅の蕾は固い。温かい愛情のあるところ、生命は中から開いてくるのである。

 罪はない。お釈迦様は「過去世の罪」「前世の罪」で人々を裁くヒンドゥー社会に「人間罪無し」の真理を伝え、それを継承されたのがアンベードカル菩薩である。

 本来、罪はないのにどうして私の周囲で罪を犯す衆生がいるのかと言えば、それは私が本来あるべき愛を十分に出し切っていないからである。本来あるべき温かい太陽の日射しがなければ、本来咲くべき梅の花も咲かなくなってしまうのである。

 私の不徳とは愛の不足を言うのである。「温かい太陽」とは天照大御神様の無限の愛のことである。全ての衆生は天照大御神様の分霊なのであるから、本来愛そのものなのである。

 実相円満完全。南無妙法蓮華経。


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