不徳の致すところ
先祖供養をしている最中、私の脳裏に浮かんだ一言、それが「不徳の致すところ」という言葉だ。
私は気が短い。そんな私を抑えているのは、私情で争うことはならぬという道徳律である。
しかしながら、それを裏返すと、私怨のある相手が公に関する罪を犯していると、これまで我慢していた分、思う存分、その人物を責めてしまう悪い癖がある。
基本的に、私は人を嫌うことはない。相手が一方的に自分を嫌っているだけ、ということが多くの場合なのであるが、一方的に嫌われるというのはこちらにストレスが溜まり、その相手が公の秩序を乱すような言動を行うとついついストレス発散の好機に感じてしまうようである。
だが、今日の先祖供養の最中にそれではいかぬというのが脳裏に浮かんだ。ご先祖様の導きであるのかもしれない。どんな悪党であれ、私と縁あるすべての衆生の罪は、私の不徳の致すところなのである。
私の所属する国際平和信仰運動団体の今月号の機関誌には、光明思想家・谷口雅春先生の著書『新版生活の知恵365章』から次の言葉が引用されていた。曰く――
温かい太陽の日射しにおかれた縁側にある鉢植の梅がもうふくらんで、二、三輪ひらいている。しかし霜に覆われた庭の梅の蕾は固い。温かい愛情のあるところ、生命は中から開いてくるのである。
罪はない。お釈迦様は「過去世の罪」「前世の罪」で人々を裁くヒンドゥー社会に「人間罪無し」の真理を伝え、それを継承されたのがアンベードカル菩薩である。
本来、罪はないのにどうして私の周囲で罪を犯す衆生がいるのかと言えば、それは私が本来あるべき愛を十分に出し切っていないからである。本来あるべき温かい太陽の日射しがなければ、本来咲くべき梅の花も咲かなくなってしまうのである。
私の不徳とは愛の不足を言うのである。「温かい太陽」とは天照大御神様の無限の愛のことである。全ての衆生は天照大御神様の分霊なのであるから、本来愛そのものなのである。
実相円満完全。南無妙法蓮華経。
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