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2020年5月

2020年5月29日 (金)

『信仰による平和への道』について

 この本がどうして重版されていないか、tapirさんが某掲示板に書かれているが、私も明確な理由は知らない、しかし、二つほど情報を聴いている。

 一つ目は、これが両軸体制を前提としているから不適切である、というものである。

 二つ目は、どうも谷口雅宣先生としては森田征史先生に押し切られてしまったような面が、当時の運動方針にはあったらしい、という話である。

 そこら辺の事情を詮索しても仕方がないが、『信仰による平和への道』をテキストに使わなくとも今の運動を推進できると判断した、それが重版しない判断の一つにあることは、確実に言える。

 無論、『信仰による平和への道』を「引用」することには何の問題もない。雅春先生の重版保留書からの引用も同様である。

 ついでに。

 妹尾先生が兵庫教区の教化部長になられて住吉大神の祈りをするようになったことが、ホンリュウ派の掲示板で話題になっているそうである。

 当たり前である。生長の家は今でも住吉大神を祀っている。

 また、妹尾先生の祈りには造化の三神の言葉もある。妹尾先生は谷口雅宣先生に心から中心帰一されているし、また、雅宣先生の本心もよくご理解されている方である。

 妹尾先生が教化部長に赴任されたことは、我々にとって大きな福音である。

 

2020年5月 4日 (月)

第一義の神ということ

 なぜ今頃になって、私の昨年正月の文章が話題になっているかは判らないが、今、某掲示板に私の文章が転載され、それを享けて反総裁派の方が私のことを色々非難されているようである。

 ある方は「日野さんの相変わらずの馬鹿げたさも、もっともらしく言うこじつけ発言は、いい加減にしてもらいたい」等と、私のことを酷評されている。

 その方は数年前、安倍政権を擁護していて、安倍政権が左翼で売国奴であると私が懇切丁寧に説明しても、中々理解されなかった方であるが、今ではすっかり安倍政権の問題点を理解されているようである。こういう言い方をしたくはないが、少なくとも安倍政権批判に関しては、私はその方に「馬鹿げた」と言われるようなことを書いていなかったはずだが、「相変わらず馬鹿げた」と言われるからにはその方は一体、どれだけ賢いのであろうか?

 他人をバカにしても良いのは、その分野で相手よりも賢い人間だけである。

 私のことを「馬鹿げた」と言われるからには、その方は(安倍政権への評価については間違いもあったようだが)「造化の三神」の話題については、さぞかし20代前半の若造などバカにできるほど賢いお方なのだろう。ならば、私のような馬鹿げた若造のブログ記事に、是非とも「日野は○○と言っているが、これは●●という理由で間違っている」と、具体的に説明して私の間違いを糾してほしいものである。

 ちなみに、この方は私に二つの質問をされているので、マナーとして簡潔にこたえようと思うが、ただ、一つ言いたいのは、私はとても未熟な青二才であり、その方は総裁先生の乳母である、つまり私よりも遥かに信仰の先達ではあるようであるが、いくら「大先輩」でも会ったこともない、本名も判らない方にバカにされると答える気も失せることはある。

 私は貴女が信仰の先達であるから、内心では匿名で私のことを馬鹿にする人には答えたくない気持ちもあるが、マナーとして答えさせていただく。こんなことを書いているのであるから、私は本当に未熟すぎる男である。

 それでは、質問第一。

それでは、これはどういう風に言うのかな?
七重の塔に、創始者が作られたお経は1つも入れずに、
三代目さんの作ったお経、二冊だけを収めて、

それを全国の教化部の大拝殿の「實相額」の前に安置して
今後、生長の家の行事をすると言う
雅宣総裁の
全国組織へのお達しも、雅宣総裁のお達しは、
正しいのだと言うのかな、日野さんは。

 『甘露の法雨』を入れるとなおよいが、『観世音菩薩讃歌』だと悪いという訳ではないと思う。

 かつて、『甘露の法雨』の著作権を管理している生長の家社会事業団が「『甘露の法雨』を霊牌としては、無償提供しない」と主張して裁判を起こしたことがある。

 社会事業団側の言い分は「公益財団法人になったから、無償提供は出来ない」というものであったが、その主張が誤りであることはその後の裁判で確定した。残念ながら、法律上間違っている主張を展開してまで「『甘露の法雨』を無償提供しない!(仮に、それが霊牌であっても)」という集団が、『甘露の法雨』の著作権を握っているのである。

 そのような状況で、「七重の塔に『甘露の法雨』を使いたいのだが」と交渉しても、彼らが同意してくれるかどうか。もしも同意してくれないのであるならば、同じ効果のある『観世音菩薩讃歌』を用いるほかないであろう。

 第二の質問は次のようである。

で、もう1つ日野さんに質問です。

2014年に、雅宣総裁が、「住吉大神様」から”造化の三神”にご祭神を変えてしまった後、
約6年経ちますが、日本、並びに 生長の家教団に、どのような霊徳が、ありましたか?

具体的に言ってください。

 この六年の間に、朝敵安倍政権が保守ではない、と自覚する国民が少しずつ増えてきた。

 本当に、少しずつではあるが、世の中はよくなりつつあるとおもう。

 さて、かつて本ブログにもコメントして下さっていたtapir様が次のようなことをその掲示板にかかれている。

注意:以下、tapir様の投稿への反論を書いていますが、本ブログ記事へのコメント欄を見るとtapirさまの投稿は私宛の文章では無かったようです。私が匿名掲示板への投稿を今避けているのはそういう不要な誤解を招くためですが、誤解を解くためにわざわざコメントして下さったtapir様には感謝します。

筆者は、これからの国際化に向けて運動の変化に対応するためにアッラーの神は実に立派な神様だから、今日から生長の家の主宰神にします、と総裁が言われたら、「中心帰一」「中心帰一」と言って、唯々諾々と従うつもりでしょうか。

 私にはこの文章の意味がよく理解できなかった。

 生長の家の「主宰神」の意味はよく理解できないが、生長の家では「造化の三神」は第一義の神であると解釈している。それは雅春先生の頃からそうである。

 そして『旧約聖書』の「エロヒム」も第一義の神である。(雅春先生の解釈では、ヤハウェは違う。)

 『クルアーン』に出てくる「アッラー」は、語源的には「エロヒム」と同じであるし、実際私が『クルアーン』を読んだ限りでは、「アッラー=エロヒム」と解釈されるべきである。つまり、「アッラー」も「第一義の神」である。

 だから、「造化の三神」を祀ることは「アッラー」を祀ることと、何ら意味に違いはない。私もインドのイスラム教徒には「アッラーを信仰している」と伝えた。

 龍宮住吉本宮は神社の形式であるから、『古事記』にも掲載されている「造化の三神」の名称で祀るのが良いとは思うが、モスクの形式の施設を生長の家が作っても構わないと思うし、また、海外のムスリムの方が参拝した際には「ここではアッラーを祀っております」と説明して、何ら問題はなかろう。

立派な神様は、世界中にあまたいらっしゃいます。しかし、長年にわたる恩義のある神様を、不要になったと言って紙くずを投げ捨てるように捨てる信徒は、傍法の輩であって、決して信仰者ではありません。

 私はtapir様が、まるで学ぶ会の某副代表であるかのような文章を書かれたことを、深く哀しむのである。

 生長の家は、決して住吉大神を「不要になったと言って紙くずを投げ捨てるように捨て」たわけでは、ないのである。

 生長の家は今でも住吉大神を祀っている。なのにどうしてtapir様がそのような事実に反することを書かれるのか、私には理解できない。学ぶ会の宣伝に騙されてしまったのであろうか?

 ところで、ここまで書いて気付いたのだが、私はtapir様が致命的な文章の誤読をされていることに気付いた。私は基本「文法上問題のない文章である限りは、誤読する方が悪い」というスタンスではあるものの、誤解を招く文体を書いてばかりいては読者に申し訳ないので、補足説明したい。

造化の三神が、他の神社でも祀られている立派な神様であるということが述べられていると思いますが、今回の、生長の家の問題は、神様の側ではなく、お祀りする人間の側の問題です。

 私の文章は「造化の三神は立派な神様である」という趣旨では、ないことは通常の国語力と生長の家の知識がある方には理解できるはずなのである。

 造化の三神は第一義の神なのであるから、そりゃ世俗の言葉を使うと「立派」には決まっているだろうが、そのような言葉を使うのはやや不適切にも思える。

 そして、造化の三神が第一義の神であることは生長の家信者の間では「常識」のはずであるから、それを今さら「造化の三神は立派な神様であった!」等と言うことは、あり得ない。

 いずれにせよ、サムハラ神社も第一義の神を祭祀する神社であるから、龍宮住吉本宮が第一義の神を祀るのも問題ないことが判った、という程度の趣旨の文章である。

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