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2021年2月

2021年2月17日 (水)

六世紀から七世紀初頭の大和政権――「船王後墓誌」銘文の一解釈(古田史学の会会報162号掲載)

六世紀から七世紀初頭の大和政権

「船王後墓誌」銘文の一解釈

はじめに

  古代の日本において「天皇」号が使用された金石文の内、古いものの一つが「船王後墓誌」である。これについては通説の間でも議論を生んできたところではあるが、古田学派内部においては「天皇」の用語が「九州王朝の天子」を指すのか、それとも「大和政権の指導者(大王)」を指すのか、について議論が行われてきた。

 古田武彦(以下、敬称略)は晩年「天皇」を「九州王朝の天子」とする解釈を発表された(註一)。これは、いわゆる「法隆寺薬師如来坐像光背銘」(註二)における「大王天皇」を「近畿天皇家の称号」とした(註三)、従来の古田説とは異なる「新解釈」であった。だが、それについて船王後墓誌の「天皇」号を「ナンバー2としての近畿天皇家の称号」とする古賀達也から批判があり(註四)、古田の新解釈を是とする服部静尚の反論(註五)と古賀の再反論(註六)が存在しており、現段階で議論は続いている。

 そうした議論を読み私が注目したことは、大和政権の指導者が本当に「ナンバー2」の称号を名乗るだけの実態を有していたのか、という問題である。というのも古賀は六世紀において河内に大和から独立した勢力が存在し、しかも「実勢力としては河内の勢力の方が大きい」との作業仮説を持っているようであるからである(註七)。七世紀初頭まで大和から独立した「捕鳥部萬」の勢力が河内を含む「畿内八国」を支配していた、という仮説は以前から冨川ケイ子が提唱しており(註八)、服部もそれを受けて河内の巨大古墳群は捕鳥部萬の祖先が造営したものであるとの説を発表している(註九)。なお、私は河内の巨大古墳造営者が誰かについては現時点では断言できない、という旨の論点整理を過去に行っているので関心のある方は参照していただきたい(註十)。

 ここで重要なのは、七世紀になると金石文や木簡と言った「一次史料」が現存している、という事実である。『日本書紀』の内容を信じるにしろ、盗用されたとして原伝承を復元するにしろ、それはあくまで「二次史料」である。船王後墓誌を始めとする史料の解釈は、あくまでも「一次史料」たる同時代史料を主な根拠として論じる必要がある。

 その観点から言うと、船王後墓誌における古賀の主張は「天皇」の使用例として飛鳥池遺跡出土木簡や小野毛人墓誌と言った他の同時代史料も上げている点において、現時点では説得力があると考える。服部の反論は『日本書紀』における船王後の「不記載」を問うものである(註五)が、『日本書紀』には『公卿補任』のような全官吏の動静を記した史料ではなく、『日本書紀』への解釈を「前提」として船王後墓誌を解釈することが正しいのかは議論の余地がある。しかしながら大和政権の指導者が「ナンバー2」の称号を名乗っていたという古賀の主張は、同じく古賀の大和よりも「実勢力としては河内の勢力の方が大きい」という主張と矛盾するのではないか、との疑問を抱いたのでこの問題について論じさせていただく。

前提

 本稿においては重要な前提が存在する。それは「船王後墓誌」について「真作説」に立脚している、ということである。

 まず、「船王後墓誌」は河内において出土しているが、船氏が河内を本貫とする豪族であったことについては、概ね異論が無いようである。例えば、船王後と同時代の人物である道昭も船氏の人間であるが、彼は河内国の出身である(註十一)。船氏以外の「西漢氏」系の氏族(船氏と同じく王辰爾を祖先とする氏族)にも河内を基盤とした者が多い。たが、一方で「これまでの史料からは、この墓誌が本当に松岳山古墳周辺から出土したのかどうかさえ確認できない」とする見解も存在する(註十二)。

 さらに、船王後墓誌に「官位」の用語が用いられていることから、これを官位相当制の確立した後世の追納であるとする説も存在する(註十三)。

 現時点では、私は船氏の本貫が河内であることや船王後墓誌が河内で出土したことを疑うにたる充分な理由があるとは、考えられない。また、「官位」の用語も七世紀時点で使用されていたとする服部の反論がある(註五)。そのため、本稿においては古賀の解釈を前提として記述するが、これらはあくまで「現時点」での判断であり、今後の議論の進展や新史料の発見等の事情により変わり得るものであることはご了承願いたい。

河内と「天皇」の関係

 さて、船王後墓誌において重要なことは「天皇」の宮殿名として「乎婆陁(オサダ)」(敏達)、「等由羅(トユラ)」(推古)、「阿須迦(アスカ)」(舒明)と記されている、ということである。だが「オサダ」「トユラ」「アスカ」はいずれも河内国内に存在する地名である。

 少なくとも「アスカ」については『古事記』においても「河内飛鳥(近つ飛鳥)」と「大和飛鳥(遠つ飛鳥)」とが記されており、古代から「河内飛鳥」が存在したことは確実である。「阿須迦天皇」を「大和なる舒明天皇」と解釈することは「アスカ」の地名だけでは不可能であり、船王後墓誌における「天皇」を「敏達」「推古」「舒明」と解釈することができるのは「天皇=大和」という認識を共有している人間のみである。船王後墓誌が成立した頃は九州王朝がまだ健在であるから、その時点では『古事記』『日本書紀』に見られるような「大和一元史観」「近畿天皇家一元史観」による歴史改竄は行われていないのであり、「敏達」「推古」「舒明」の三人の「天皇」号が「追号」だというのも無理がある。

 そうだとすると、現実に「敏達」「推古」「舒明」らを河内の人が「天皇と言えば、この方」という風に認識していた、ということになる。そうでなければ、例えば舒明について言えば「大和の飛鳥の天皇」又は「遠つ飛鳥の天皇」という風に記されるべきで、単に「飛鳥の天皇」と記すと誰のことか判らなくなる。河内の人間にとって「飛鳥」とは「近つ飛鳥」のはずであるからだ。

 しかしながら、古賀の作業仮説では敏達天皇の時代に於いて河内には大和よりも「大きい」勢力があったことになる。大和よりも「大きい」勢力が大和の指導者を「(九州王朝に次ぐ)ナンバー2」である「天皇」と認めるだろうか?

 また、古賀は捕鳥部萬が九州王朝に制圧されるいわゆる「河内戦争」の結果、「九州王朝(倭国)が当地を直轄支配領域にした」とする(註十四)。事実、推古・舒明期には難波天王寺(四天王寺)や前期難波宮の造営が始まっている。この時点でも、やはり河内の人が「天皇と言えば、大和」「飛鳥と言えば、遠つ飛鳥」と認識する可能性は、低い。

 むしろ「船王後墓誌」という金石文(一次史料)を根拠とし、かつ、そこに現れる「天皇」が「大和の天皇」だとするならば、「河内は大和が支配していた」と考えるのが素直な解釈ではあるまいか。少なくとも、捕鳥部萬が討伐される以前の敏達をも「天皇」と呼ばれていることから、敏達天皇当時の河内が大和よりも大きい勢力であるとは、言えない。

捕鳥部萬の正体に関する3つの可能性

 河内を大和政権が支配していた可能性を論じると、予想される反論として「河内戦争」記事を挙げるケースが想定される。『日本書紀』の「河内戦争」記事を素直に呼ぶ限り、彼が「八国」の領域の支配者であることは明白であると考えられるからだ。

 もっとも『日本書紀』には

物部守屋大連の資人捕鳥部萬(萬は名なり。)、一百人を将て、難波の宅を守る。

と、ある。この記事には律令制を前提とした言葉が散見されるので、「資人」も律令制におけるそれとほぼ同義であると考えられるが、皇族や貴族の使用人に過ぎない「資人」が「一百人の将」であることは考えられない。

 むしろ、これは「捕鳥部萬が『資人』一百人を将て」が本来であった可能性も高い。ちなみに『養老律令』においては「一位」の人間の「資人」が「百人」である。「難波の宅を守る」ために「一百人を将て」いることから、捕鳥部萬が後世で言う「正一位」又は「従一位」相当の有力者であった可能性は高いと考えられる。そうでないと、一邸宅の防衛に「百人」は多すぎるであろう。

 それではどうして『日本書紀』は「捕鳥部萬」の本来の立場を抹消したのか。『日本書紀』の大義名分からすると、一番考えられるのは「近畿天皇家一元史観に合致しない史料であったから」というのが妥当であろう。

 それでは、捕鳥部萬の正体はだれか。それについては二つの条件がある。

1 九州王朝から討伐される対象となるような人物である。

2 後世の大和朝廷にとって都合の悪い存在である。

 そして、これに合致するのは次の3つのケースである。

A 捕鳥部萬は九州王朝の人物であり、時の九州王朝の天子に対して反乱を起こしたので討伐された。

B 捕鳥部萬は大和政権の人物であり、大和政権の内紛に「上位王朝」である九州王朝が干渉して討伐された(註十五)。

C 捕鳥部萬は九州王朝でも大和政権でもない独自勢力の長であり、九州王朝による全国統一に抵抗したので討伐された。

 私が疑問に思うのは、この「河内戦争」の記事一つだけを根拠に専ら「C」の可能性ばかりを論じている人が少なくないように感じられる、という事実である。

 「船王後墓誌」の史料批判からは、敏達天皇期において大和政権が河内を支配していた可能性が浮上する。そして、その可能性が0ではない以上、河内戦争記事についても「C」だけではなく「A」や「B」についても議論されるべきではあるまいか。

 また「C」の可能性についても、私は河内の古墳と吉備の古墳の類似性や吉備勢力の河内進出を示す説話との関係から、吉備政権との関係等を考慮する必要があると考える(註十)。

大和政権の支配領域を過小評価は出来ない

 私が「河内戦争」の記事だけで大和政権の支配領域を過小評価できない、と考える理由の一つは、九州王朝時代の大和政権が「大和一国」に限定される領域の支配者では「ない」ことを示す、史料根拠が船王後墓誌以外にも存在するからである。

 それは九州王朝がまだ存在しているときに成立した史料群である。

 まずは柿本人麻呂が詠んだ「景行天皇の近江遷宮」に関する和歌である(註十六)。このことから「第一次近江宮」が九州王朝滅亡後の大和朝廷による造作では無いことが判る。

 また、古賀も論じている通り金石文では「那須国造碑」(下野国)や「小野毛人墓誌」(山城国)と言った、大和外部から出土している七世紀成立の金石文に「飛鳥浄御原大宮」が登場する。少なくとも、那須国造碑においては「倭国年号」ではなく「武周年号(永昌)」が使用されていることから、ここでいう「飛鳥」は「筑紫の飛鳥」ではなく「大和の飛鳥」と解釈することが妥当である(註六)。

 重要なことは、船王後墓誌の成立はこれらの金石文よりも以前であり、また柿本人麻呂よりも前である、という事実である。一方、これらの金石文と比べると『日本書紀』は後代史料である。六世紀から七世紀初頭の大和政権の支配領域を考える際には、まずは船王後墓誌を始めとする金石文を基準にするべきであると考える。

 さらに、これは一次史料ではないが「七世紀初頭の大和政権」の影響力をピンポイントで示すものとしては「推古朝遣唐使」が存在する。その年代については古田武彦(註三)・私(註十七)の「十二年のズレ」と西村秀巳・服部静尚(註十八)の「十四年のズレ」の二つの仮説が存在するが、いずれにせよ、七世紀初頭の大和政権は独自に唐と交渉するだけの力を持っていたのである。大和政権の影響の及ぶ領域が「内陸部」である大和一国であると、このような外交は「物理的不可能」に近いのではないか。

 こうした史料状況から、「河内戦争」記事については様々な解釈が検討されるべきであり、「河内戦争」記事を根拠に船王後墓誌の解釈を行うことは危険であると言える。

今後の課題

 文献については「原則として」より成立の早い文献の史料批判が重視されるべきである。船王後墓誌における「天皇」が大和政権の指導者であるならば、その支配領域も船王後墓誌の内容から解釈されるべきであり、特に年代については改変されがちな『日本書紀』の中の「一、記事」の「一、解釈」を「前提」として船王後墓誌の解釈を行うべきでは、ない。

 本稿の内容を簡単にまとめると、「河内の豪族」が「天皇=大和」という認識を示している以上、河内も大和の支配領域にあった、少なくとも大和を超える勢力は河内には存在しなかった、とまず解釈するのが筋ではないか、というものである。

 さて、六世紀から七世紀初頭の大和政権について記している『日本書紀』以前の金石文としては、他にいわゆる「法隆寺薬師如来坐像光背銘」が存在する。これについては令和二年十二月の例会で正木裕が「釈迦牟尼仏」であるとの認識を示しつつ、その成立は『日本書紀』成立以前ではないか、とされた。ならば船王後墓誌や小野毛人墓誌と並ぶ『日本書紀』以前の金石文における「天皇」号の用例ということになり、六世紀から七世紀初頭の大和政権の実態については船王後墓誌ほどには無いにしろ、『日本書紀』以上の史料価値があることになる。

 法隆寺薬師如来坐像光背銘の解釈については近年も「純漢文」説が提唱されるなど、未だに議論が続いている(註十九)。今後はこうした『日本書紀』以前の史料を検討することを通じて、本稿の帰結の当否も含め、六世紀から七世紀初頭の大和政権の実態を解明していきたい。

 

一 古田武彦(二〇〇九年)「金石文の九州王朝 歴史学の転換」『なかった』第6号

二 法隆寺にあるいわゆる「薬師如来坐像」が本当に「薬師如来」の像であるか、については服部静尚(註五参照)、正木裕らの批判がある。

三 古田武彦(一九八五年)『法隆寺の中の九州王朝』朝日新聞社

四 古賀達也(二〇一九年六月)「「船王後墓誌」の宮殿名」会報152号

五 服部静尚(二〇一九年九月)「二つの古田説 天皇称号のはじめ」『多元』153号

六 古賀達也(二〇二〇年一月)「七世紀の「天皇」号」『多元』155号

七 古賀達也(洛中洛外日記 二〇一九年五月)「日野智貴さんとの「河内戦争」問答()

八 冨川ケイ子(二〇一六年)「河内戦争」『古代に真実を求めて』第十八集

九 服部静尚(二〇一六年一二月)「盗まれた天皇陵」会報137号

十 拙稿(二〇一九年八月)「河内巨大古墳造営者の論点整理」会報153号

十一 長洋一(一九七三年)「律令制と仏教()ー道昭についてー」『神戸女学院大学紀要』

十二 柏原市文化財課(二〇一六年)「船王後墓誌」(柏原市公式ホームページ)

十三 西野誠一(二〇〇五年)「天皇号の成立」『金沢大学文学部日本史学研究室紀要』

十四 古賀達也(洛中洛外日記 二〇一九年)「「難波複都」関連年表の作成()

十五 『日本書紀』が大和政権の内乱に外部勢力が干渉してきた痕跡を抹消していることは、明白である。確実な例を挙げると、壬申の乱においては「大分君」「倭京」等の記述から九州王朝と無関係であるとは考えられないし、また『釈日本紀』には「唐人」の存在が記されているが『日本書紀』からは消されている。「忍熊王の乱」「崇峻天皇暗殺」「乙巳の変」も状況からして九州王朝が全く無関係であるとは考えにくいし、「蘇我・物部戦争(丁未の乱)」も九州王朝の関与が検討されるべきであると考える。

十六 古田武彦(一九九四年)『人麿の運命』(原書房)

十七 拙稿(二〇二〇年)「『日本書紀』十二年の後差と大化の改新」『古代に真実を求めて』第二十三集

十八 服部静尚(二〇一四年)「日本書紀の中の遣隋使と遣唐使」会報123号

十九 頼衍宏(二〇一八年一二月)「法隆寺薬師仏光背銘新論」『日本研究』58巻

 

 

 

 

 

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