古事記と現代の預言

2017年1月 3日 (火)

『古事記と現代の預言』(谷口雅春先生)を読む(4)


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造化の三神のくだりをツイキャスで解説しましたので、宜しければお聞きください。

途中、荒らしコメントが来てそれに反応している場面もありますが・・・・。


2016年9月12日 (月)

『古事記と現代の預言』(谷口雅春先生)を読む(3)


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「高天原とは、実相世界の事である」という言葉の意味を、もう少し詳しく、掘り下げてみましょう。

「高」というのは、これは高く伸びる象徴であり、それを線にあらわすと、縦の線であります。十字を書くと縦の線は時間の象徴であり、生命(いのち)の象徴であります。我々の生命は、下からいうと、父、祖父、曾祖父と……ずーっと上がって行って遂に神に達する。上からいうならば、神から始まって、ずーっと下へ天下って来る。これは生命であります。上に行ったり、下へ降ったりするのは「縦の線」で象徴できるのであります。だから、生命及び時間を縦の線で象徴します。縦の線は「生長の家」の「生」に当たるのであります。縦に生(の)びるのが「生」であります。「生長の家」の古い誌友でも、時時(ときどき)「成長の家」とお書きになる人がありますが、「生長」と書いて頂きたい。大体この「成長」という意味は、これは大人になるという意味に主として使われる熟語であります。で、大人になり成人したら、それ以上もう成長しなくなるから、それでは無限に生(の)びる意味をあらわすのには不適当ですから私たちは「生長の家」と「生」を使うのであります。

私たちが「神様、ご先祖さま」という時には、別に、自分の横にご先祖様がいるようには、感じない。なんとなく、感覚的にですけど、ご先祖様と自分とは、縦のつながりであるかのように感じます。

生命のつながりは、縦の線で象徴できるわけですね。そして、その大本は、神様であります。それを象徴的に表した言葉が、「高」の字である、という風に、『古事記』神話には一言一句に意味があり、そして、それに最もふさわしい漢字を充ててあるのです。

太安万侶は、『古事記』の内容をも地に表すにあたって、大変苦労したという話が『古事記』の序文には書いてありますが、雅春先生はその『古事記』の真義を言霊的解釈によって解き明かしたわけです。

さて、話を戻すと、生命及び時間は、縦の線で象徴できる。

では、「横」とは何か、というと、それは、その生命から出た心が展開して空間を広げる――生長の家においては、「唯心所現」の真理と説くところのものが、「横」である。

この、縦であり、横であるところの空間、そこで時間が刻々と流れているわけですが、その一刻、一刻の瞬間毎(ごと)に、私達は生命(いのち)の炎を燃やし続けているわけです。

縦の線は生命であり、時間を表しているのであります。縦の線を上へ遡ると高くなりますから、それは「高天原」の「高」を象徴しているのです。

そして、「横」を表しているのが、「原」の字なのです。

横の線は「原」を象徴しています。皆さんが野原をずーっと見渡すと横広がりに広がっているように見えるでしょう。だから横線を以て空間を象徴します。

私達は、常に神様の生命(いのち)の炎を燃やしているわけですが、それが一瞬、一瞬と時間は経っていき、空間は新たな展開を見せていく。次々と、心の力で展開していくもの、それが空間です。


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それでは「天」とは何かといいますと、これは「縦横の交わり」によって表される、実相宇宙そのものなのです。

神の生命は高きところから縦に天降(あまくだ)って来ます。縦に、こう天降って来るところの神の生命(時間)と、それが横に展開するところの「原」なる空間と、言い換えれば「時間」と「空間」とが十字交叉(こうさ)して、そして「天球(あま)」の相(すがた)になっているのが宇宙であります。「あま」というのは「顕われる、円(まる)い」という意味です。天文学ではこれを「天球」というのです。「天球」は所謂(いわゆる)「宇宙」であって、「宇宙」は円いのです。「あま」である。日本人が「天球」を称して「天(あま)」といったのはまことに素晴らしい霊的直観である。

これは、縦と横とが交わって、十字架が扇風機のように激しく回転する、生長の家のマークの「光輪卍字」にも表される卐が激しく回転することによって球体のような姿を見せるのであります。

縦と横との陰陽両者が卐のごとく結合して回りだすと、それはもう、球体にしか見えないのであって、「あま」というと恰(あたか)もそこに静止空間としての球体があるように見えるけれども、「高天原」というのは「たか」と「はら」とが結びついて激しく動く、その激しい動きの中にも調和があって、その調和がとられた激しい動きを「あま」と表現しているのであり、それが「たかあまはら」であるのです。

これを、古田武彦先生が言われたように「たかあまばる」といっても、問題はない。「ばる」とは「張る」、心の力によって「拡張する」働きであって、それと、神からの「たか」の働きと陰陽調和して、綺麗(きれい)な円い「あま」となるわけです。

実相世界というと、そこは完全なる世界である、と、生長の家で教わるから、恰(あたか)もそれは静止した、静かな世界であるかのように思われる方もいますが、実際には、動にして静、時間を超越しているから「静」のように理解することもできるけど、それは、不断の「動」の働きを超越したところにある「静」であって、「たか」と「はら」又は「はる」の不断の働きの双方を内蔵した「あま」なのです。

これは何も、青二才の大学生である私が勝手に偉そうなことを言っているのではないのであって、神示にも書いてある真実です。

それでは、雅春先生の言霊的解釈に戻りましょう。

「ま」は「円い」とか「完(まった)い」とか「まこと」とかいう語にあらわれているように、「ま」というのは、皆「完全な」「円満な」というような意味を表す言葉であります。円満な心を「まごころ」などといいますね。「円く顕われている」のが天球であるから、これを「天(あま)」というのです。で、「あま」が転じて「天(あめ)」と読むこともある訳です。「マ」と「メ」とは同一のマ行でありますから、「マ」が音便で「メ」に転じて、「あめのみなかぬしのかみ」と読んだりいたします。この天球のことを「家」というのです。宇宙というのは「ウ冠」で、ウは家をあらわしております。それで「生長の家」というのは、時間と空間とが十字交叉(こうさ)して球状の家をなしている大宇宙という意味であります。その実相の大宇宙を「高天原」というのであります。

こうした『古事記』の真理を、端的に表したのが『禊祓之祝詞(みそぎはらいののりと)』です。

高天原(たかあまのはら)に神留(かむづま)り坐(ま)す神漏岐(かむろぎ)神漏美(かむろみ)の詔(みこと)を以(も)ちて、皇親(すめみおや)神伊邪那岐命(かむいざなぎのみこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(をど)の阿波岐原(あはぎはら)に禊祓(みそぎはら)ひ給(たま)ふ時に生(あ)れ坐(ま)せる祓戸(はらへど)の大神等、諸々(もろもろ)の枉事(まがこと)罪穢(つみけがれ)を祓へ給ひ清め給ふと申す事の由(よし)を天津神(あまつかみ)国津神(くにつかみ)八百万(やほよろづ)の神等共に天(あめ)の斑駒(ふちこま)の耳振立て聞召(きこし)めせと畏(かしこ)み畏(かしこ)みを白(まを)

『禊祓之祝詞』については、古田武彦先生も研究されていたと思いますが、歴史学の面からも興味深いので、また研究してみたいと思います。


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それでは、再び『古事記』の冒頭部分の解釈に戻ります。

『天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は、天之御中主神』とありますが、天地がまだ初発であるときに――「初発(はじめ)」というのは、必ずしも時間的流れの初めという意味では無いのでありまして、天地の根元の状態をいうのであります。その天地の根元の状態に於(お)いて、宇宙は「高天原」であって「高」と「原」と――「時間」と「空間」とが十字に結び合って、そして一つの球状宇宙を成しているというのであります。だから高天原とは大宇宙のことであります。『高天原に成りませる神の名(みな)は……』とありますが「成る」というのは、神様がお成り遊ばされるという意味にとり、高天原においで遊ばされたというふうに解釈する人もあるけれども、本当はそうじゃないのです。「なる」というのは鳴り響くという事です。『高天原に成りませる』というのは宇宙全体に鳴り響いておられたという意味で、その神様が、『天之御中主神』であると書かれているのです。天之御中主神は、宇宙の何処(どこ)にも遍満し、充ち満ちて、鳴り響いておられる神だというのであります。この『高天原に成りませる』とあるのは「成りませる」と現在活用で書かれていることに注意すべきです。神が宇宙遍満していられるのは永遠の現在なのであります。その遍満の神様が「天之御中主神」であります。

これについては、丁度(ちょうど)、生長の家総本山において天之御中主神を始めとする「造化の三神」を祀ることが、一昨年に決まりまして、それで去年の5月、生長の家総本山で谷口雅春先生の三十年祭があり、兵庫教区はちょうど、その日が団体参拝練成会で総本山へお参りする日だったので、兵庫教区青年会の人間の一人として、私も参列させていただいたのでありますが、その練成会で、当時総本山の総務だった楠本行孝先生が、「造化の三神」の説明をされたのであります。

余談になりますが、福岡教区教化部長の矢野俊一先生が、造化の三神の祭祀は雅春先生の悲願であった――と、行孝先生のお父様である楠本加美野先生から聞かされた、という話があるそうです。矢野先生自身に確認したわけではないのですが、いずれ確認してみたいと思います。ちなみに、矢野先生の息子の矢野裕大先生には、青年会の全国大会において、かな~りお世話になりました。ありがとうございます。

それで、話を戻しますと、この部分に関する話を、行孝先生が講話の中でされたのです。

イメージ 1
(写真:楠本行孝先生(左)と私(右)

練成会の講話は、録音・撮影禁止という決まりがあり、行孝先生のあの時の講話の正確な記録が手元にないので、なんとか、講話内容が分かるものはないのか、と調べておりましたら、ありました。

なんと、私のブログに、その時の行孝先生の講話の内容が、記されておりました。(笑)

ブログといっても、この公式ブログではなく、非公式ブログの一つですが、そこに「第370回生長の家総本山団体参拝練成会に参加」という記事があり、次のように行孝先生の講話内容が記されています。

「造化の三神を祀る理由について考えていると、楠本加美野先生が泣かれていた。理由を聞くと、『どうして今、造化の三神を祭祀されるのかが分かった。天之御中主神は中心帰一の神様である。今の生長の家は中心が明らかになっていない、中心帰一できていない。総裁の説く御教えが神意である、と考えて運動しなければいけない、ということだ。』」

「神の子は天之御中主神の理念を実践するために生きている。『生きている』ということは『中心帰一している』ということだ。」

「左側の唯物論である共産主義は崩壊した。資本主義も唯物論である。生長の家は資本主義を是としていない。これが大前提である。右の唯物論も左の唯物論も誤っている。生長の家はアメリカのような国が理想である、とは考えていない。」

「国際平和信仰運動とは、『国家間の平和』が運動の目的である。谷口雅春先生は『国家も生命体だ、命だ』と言われた。『国』と『国』が調和すること、これが大事である。」

「無限なる宇宙に神の御心が鳴り響いている。今も無限に鳴り響いているのが実相世界である。」

この、行孝先生の講話にもありますように、「今も無限に鳴り響いている」のが、実相世界なのであります。

「高天原に成りませる」というのは、現在進行形で天之御中主神が「今も無限に鳴り響いている」というわけで、『古事記』は実は、唯神実相の極めて深い真理を、最初の一行に端的に表していたわけなのです。


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実相の宇宙といいますのは、「宇宙」というのものがあって、そこに神様が降ってきた、等という事では、ない。神様のコトバが鳴り響ているという事、それが、即ち「宇宙」であります。

神の心の響きが、 神様のコトバが、端から端まで鳴り響ている、それが宇宙である、というか、その、鳴り響いている、という、コトバそのものが、宇宙なのです。それを、『古事記』は表しているわけですね。

今、現在も、宇宙全体で、この日本で、この家に、私に、無論、このパソコンにも、天之御中主神が無限に鳴り響いて充ち満ちているのです。

どんな景色も、草花も、獣たちも、すべて神様の心が鳴り響ている、神のコトバそのものであります。風が吹いても、雨が降っても、台風の中にも、神様のコトバが無限に鳴り響いている、そのことを観ずるのが「神を信じる」ということなのです。

「天之御中主神は中心帰一の神様である。」と、楠本加美野先生は言われたそうですが、この神様のコトバが鳴り響いているところに、自然に「中心帰一」の真理も、現れる。

私の記憶が正しければ楠本行孝先生の講話にもあったと思うのですが――私のブログの記録からは漏れているようですが――この「中心帰一」の真理は、「天之御中主神」の名前にも表れている、ということが『古事記と現代の預言』において谷口雅春先生がお説きになられています。

 しかし宇宙の一番初めの元の神様に名前は無いのであります。我々の名前は、人間にはいろいろの人間があり、それの区別を付けなければならないので、名無しでは困るからいろいろな名前を付けてあるけれど、元の神様は一つだから名前なんか無いのであります。【中略】それで、或る場合には「天之御中主神」と名付け、或る場合には「阿弥陀(あみだ)」と名付け、或る場合には「エロヒムの神」と名付け、或る場合には「ゴッド」と名前を付けたりしています。「名前が違うから別の神様である」と、こう勝手なことをいうのであります。本来名前がない本源の神様に、勝手に名前を付けておいて、「これは別の神である」というのは変であります。【中略】そういうわけで「天之御中主神」というのは人間が勝手に名前を付けたのですが、それは固有名詞じゃないのであります。その証拠に、「天之」と「天」の字の下に「之」を付けているんですね。これは説明の言葉であります。『古事記』には「アメノ何々」と称する神々がたくさんある。天岩屋戸(あまのいわやど)に天照大御神がお隠れになった時に、裸のダンスをした「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」なんていう神様もあります。またそのほかにも「天児屋命(あめのこやねのみこと)」とか「天太玉命(あめのふとたまのみこと)」「天菩比命(あめのほひのみこと)」などという神様には皆「天(あめ)」という呼び名が付いており、「アメノ……」とは読ましているけれども、「之」という字は付いていないのであります。この「天之御中主神」だけは「之」が書いてあるのは、本源の神様に「名前なし」であって、ただ「宇宙の御中に主なるところの神」であるという説明の意味が名前の如くあらわされているのであります。

もっとも、単に「中心帰一」の真理、というと「御中に主なるところの神」が宇宙のど真ん中にいて、そこに頭を下げなければならないのである、とかそういう風に解釈する人もいるかもしれませんが、決して、そういう意味では無い。

 アメノミナカの「中」というのは、この天球の真中(まんなか)だけに在(ま)しますのであるかというと、そうじゃないのであって、この「中」というのは、シナの『中庸』という書物に「喜怒哀楽未(いま)だ発せざるを中と言う。発して節に当たるこれを和と言う」という具合に書かれているのでありますが、

いきなり『中庸』という、古代中国の古い書物が出てきて、面食らった人もいるかもしれませんが、これは「中和」という言葉の語源となった一節だそうです。

原文は「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発して皆節に中る、これを和という。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育つ。」ということで、現代語訳すると「喜怒哀楽の感情がまだ起こっていない状態、これを『中』と言っている。喜怒哀楽の感情が起こってそれがすべて節度に従っている状態、これを『和』と言う。『中』は天下の摂理を支えている大本である。『和』は天下の正しい節度を支えている達道である。『中和』を実践すれば、天地も安定して天災など起こることもなく、万物がすべて健全に生育するのである。」と意味になる(はず)です。

という具合に書かれているのでありますが、その「喜怒哀楽未(いま)だ発せざるを中と言う」その「中」が天之御中主神の「ミナカ」であります。これを「未発の中」というのです。「発せず」というのは「まだ起こらない」ということで、「喜怒哀楽未(いま)だ発せざる」とは、つまり、現象が未だ起こっていないその本源なるものが「中」なのです。「中」は偏らないのであります。現象が現れるということは、すべて、或る自己限定をして偏りに依って現われて来るのです。【中略】偏らないと、形というものは出て来ない。谷口の顔になるためには、谷口の顔に偏って自己限定しているのである。他の人の顔を全部まぜ合わせて最大公約数をとって、誰にも偏らぬ平等の顔になったら、谷口で無くなってしまうのであります。それで、この「中」というのは「偏らないところの本源」という意味であります。【中略】
 で、宇宙の本源で、何処にも偏らない、未だ一切の姿に発せざる「中(ミナカ)」なる所の、主なる神様が天之御中主神であるわけです。この主なる神様がキリスト教で「主よ、主よ」という神であります。キリスト教と、神道と非常に違うように思う人もありますけれども、生長の家式に解釈すればすべて同じように一致して争いがなくなるのです。【中略】
「主」という字は「坊主」の「主(ず)」という字、「天台座主」の「主(す)」という字で明らかでありまして「主」は「ス」であります。宇宙の本源の言(コトバ)が「ス」である訳です。未だ発せざる「未発の中」の゛ス"は発して聴こえる「ス」という字ではなくて、文字にも表わすことができない。声に発することもできない万籟(ばんらい)寂(せき)とした眠っている時の゛スヤスヤ"の声なき声の゛ス―"であります。この「未だ発せざる」無声の声の゛ス―"が分化して(自己限定して)コトバとなると、アイウエオ、カキクケコ、サシスセソ……と五十音の発音を我々はするのであります。

この「未発の中」というのも、深い真理ですから、また次回に詳細を述べたいと思います。


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2016年9月 7日 (水)

『古事記と現代の預言』(谷口雅春先生)を読む(2)


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この序文には、『古事記と現代の預言』の核心部分が、記されています。

そこには、こう書いてあります。

『古事記』や『日本書紀』にあらわれたる日本建国の神話は、単に一個の人間の捜索ではないのである。それは民族神話である。日本の古代民族がいつの間にかそのような神話を想像力によって創作したのであって、日本の建国も日本の文化の発達も、古代日本民族の想像力がつくり出した神話の創作したものである。日本建国以来の日本の国体(゛くにがら"であって、国民体育の事ではない)も、歴史の発展も、『古事記』や『日本書紀』にあらわれた神話の具体化に過ぎないのである。

この文章、雅春先生ご存命の頃から「国体」を「国民体育大会」の略称だと考える人がいたことを示していて、面白いですね。「肉体民主主義からの脱却」ということで、体育を嫌っていた(より正確には、運動神経の問題で体育が嫌いになった)私は、国民体育大会などに全く関心がなかったため、そんな間違いをしたことはありませんでしたが。

信徒の方はご存知の通り、生長の家では、

「実相」→「現象」

と、説きます。人間の場合は、

「神」(光源)→「人間」(光)

の、関係であり、

「神の子・人間」→「肉体・人間」

と、言うことになります。もっとも、雅春先生の書かれた『霊供養入門』によると、

「神の子」→「霊体」→「幽体」→「複体」→「肉体」

と、言うことになりますが、生長の家はほかの宗教と比べて、比較的霊界のことはとやかく言わないので、ここでは、簡略化した図を使います。尚、「複体」ではなく、「エーテル体」ではないか、というご指摘もあるかと思いますが、「エーテル」の存在については当時と現在では考えが異なっており、私は極力、「エーテル」の用語を使わないようにしています。(「複体」は「帰幽の神示」に基づく表現です。)

これを、国家に当てはめると、

「実相の国家」→「現象の国家」

となり、より分かり易くすると、

「建国の理念」→「現実の国家」

ということになるわけですね。


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前置きが長くなりましたが、いよいよ『古事記と現代の預言』の第一章に入ります。

『古事記』という書は、御存知の通り、天地開闢の始めから推古天皇の御代に至るまでの、その日本の歴史を古代日本民族の伝承にもとづいて書いたものであります。

雅春先生、すみません、私たちの世代の中には、「御存知」ではない、今回の引用文を読んで始めった、という方も、おられたかもしれません。私も、出雲井晶さんの本で日本神話を学んだ人間ですから。

なお、「天地開闢」というのは、「宇宙誕生」とほぼ同じ意味です。

 もっとも、天地開闢の時に人間がおって見ていたわけではありませんから、天地開闢の時の記録というものは、見ておってその状態を書いたものではない。それではどうしてそれを知ることができたかといいますと、それは直感によるしか仕方がないのであります。直感といいますと、そのものズバリの認識であります。存在の実相をそのものズバリと、直接に認識するのです。間接に何かを媒介として、例えば感覚を通して認識するのでなく、そのものに直接じかにぶつかって、それを知るのであります。

これは、少し難しい言葉ですが、生長の家信徒の皆様は、よくお解りだと思います。私たちが神想観で行おうとしている(そして、私のような青い信徒にはなかなかできない)ことですね。

直接認識によらなければ、実相というものは知ることができない。現象というものは、現れている象(かたち)ですから、見る立場によっていろいろに変わって来るのであります。

(なお)、先ほど、「生長の家はほかの宗教と比べて、比較的霊界のことはとやかく言わない」と言いましたが、ここでいう「直接認識」というのは、「霊感」とは、異なるものです。

『甘露の法雨』には、「創造の神は五感を超越している、六感も超越している」と書いてあります。五感というのは五官によって感じられる感覚です。神は視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感を超越しているのです。五感を超越しているものは見えないのです。それなら六感というもので感じたら神は見えるのではないかと考える人があるかも知れないが、神は六感も超越しているのであって、六感によって神姿(しんし)を見たと言う人があっても、まだ本物ではないのであります。

ここでいう「六感」が、いわゆる「霊感」のことです。

 六感というのは、五感の外(ほか)にまた別感覚が一通りあるのをいうのです。それは視覚に対応するところの霊眼、聴覚に対応する霊耳(れいじ)、嗅覚に対応する霊鼻(れいび)と口に属する霊舌と、それから触覚に対応するところの霊触(霊の触覚)というように、六感の中にも五種類あるのであります。

霊感などというものは、オウム真理教の修行でも得られるものであって、オウムの修行者の中には、阪神・淡路大震災を予見した者もいたということですが、それでオウムの修行が「本物」だと証明されたかというと、そうはならないのです。

この『古事記と現代の預言』を読み進めていく上で、また触れることもあると思いますが、霊現象というものは、幽霊とか心霊現象の類だけでなくて、神霊――生長の家で言うところの「第三義の神」に関するところのものも、あります。

「霊験のある神様を拝んでいるから安心だ」とか、「私が拝んでいるこの神社の神様には霊験があるから、本物だ」等という感覚だと、本当の信仰とは言えないどころか、逆に、清の信仰から遠ざかることもあるのです。

特に、幼い頃に神社等において、神秘的な現象を体験したものは、気を付けなければならない。彼らは「実相の神」では、なくて、「現象の霊験」を拝んでいる恐れが、強い。そういう若者は、「物質を超える世界」があることを体験的に知っているから、生長の家の御教えにも関心を持ちやすいのだけど、無意識に「第一義の神」ではなくて「第三義の神」を拝んでしまっている可能性があるから、充分に気を付ける必要があります。

念のために言っておくと、今の生長の家も決して霊魂の存在を否定しているわけではないのであって、前々回の兵庫教区の講習会においては、総裁先生が「前世の記憶」の話をされていましたが、質問があれば総裁先生もそういう話はされますし、恐らく、宇治別格本山の個人指導でも、相手によってはそういう話はされるでしょう。事実、生長の家宇治別格本山においては、先祖供養や流産時供養における奇蹟体験談が、続々と、山のように存在しております。

ただ、繰り返しますが、こういう霊感による把握は、決して「直接認識」によって把握されたる「本物」の把握では、ないのです。

 これらの第六感を得ると素晴らしく自分が偉くなったように思う人もあるけれども、そういうものは実相覚じゃないのでありまして、一種の霊的感覚――第六感が開いてきたわけで、霊媒的の素質がある人にこれが多いのであります。この霊媒的素質というものは、半ば肉体的素質であって、その肉体のなかに言わば「霊的トランジスター」みたいなものを生まれつきもっている人にこういう能力が多いのであります。併(しか)し、そういう霊的第六感によって感じたものは、本当の実相ではないのでありまして、その第六感の「霊的トランジスター」みたいな感覚器官によって翻訳したところの相(すがた)であります。だから矢張(やは)り間接認識であって、直接認識ではないのであります。【中略】ですから、魂が向上しておっても、全然、そういうトランジスター的成分が肉体にない人ではそんな第六感は無いということになる訳であります。だから、自分は神様の姿が見られないから、駄目だということもないし、そういう神様の姿が見えたから、私は素晴らしく悟りを開いているんだなどと高慢なことを考えるのも間違いであります。そこで、創造の神は、そのような五感や六感で見えるものでないから「創造の神は五感を超越している、六感も超越している」と『甘露の法雨』に示されているのであって、このような超越的な存在が根元の神様であります。


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「実相覚による直接認識」等というと、何のことか、わからなくなる人も出てくるでしょうが、これについては、生長の家総裁・谷口雅宣先生が、「想念を浄めて神に見(まみ)える祈り」に分かり易く書いてくださっています。

 我は今、五官の感覚によって立ち現われ、立ち騒ぐ世界から心を放ち、神の創り給う実在の世界に心を振り向けるのである。我が前に見え、聞こえ、感じる世界は仮の世界であり、我が心の映しである。それは実在でなく現象であり、本来無い世界である。神は完全であるから、神の創られたすべての実在は完全である。完全なるものは摩耗せず、故障せず、朽ち果てず、壊れない。我が前で摩耗し、故障し、崩れ、消えゆくと見えるものは、本来無いものであり、実在しない。我はそれら変転する現象から心を放ち、その゛奥"にある真実存在に心を振り向けるのである。

この、雅宣先生の文章に、実相を「直接認識」する、ということがどういうことであるかが、分かり易く記されていると、思います。

それでは、『古事記と現代の預言』に戻ります。

 さて、その直接の認識によって日本古代の民族が如何(いか)に天地開闢の初発(はじめ)を感じたかという事が『古事記』の始めのところに書かれている訳であります。

というわけで、懇切丁寧な、長い前置きも終わり、いよいよ、大聖師による『古事記』解釈が始まります。

“天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。此(こ)の三柱(みはしら)の神は、並(みな)独神(ひとりがみ)成り坐(ま)して、身(みみ)を隠したまいき。”(天地(あめつち)の初発(はじめ)の段(くだり)

第一回で述べましたように、『古事記と現代の預言』の原文は総ルビなのですが、ブログに引用する際には、必要最小限に留めています。ただ、『古事記』の解釈では発音も重視されますし、一般に使用される岩波書店版とは雅春先生は違う読みをされているので、『古事記』からの引用では、ルビを多めにしています。

「天地」を「てんち」と訓(よ)むのと、「あめつち」と訓むのとでは、かなりニュアンスが違ってきますから。

それにしても、私のPCでは、神様の名前は全然、変換しても出てこない。これって、GHQによる3S政策のせいではないのか、パソコンメーカーまで3S政策に協力しているのか、と、つい、思ってしまいます。(笑)

 この「高天原」というのを「たかまがはら」と読む人がありますけれども、これは「あま」と読むのが正しいということが『古訓古事記』の頭註に『高ノ下ノ天ハ゛アマ"ト訓ズ』とわざわざ書いてあるのであります。だから「たかあまはら」と読むのが正しいのであります。

岩波書店版では、「たかまのはら」と記されており、早速、雅春先生と別の読み方になっています。

なお、日本思想史学者の故・古田武彦先生は、「たかあまばる」と呼ぶべきだという仮説を主張しています。古田先生の解釈についても、この本を読み進めるうえで出てくることがあると思います。

「高天原」というのは、一体何処(どこ)に在(あ)るかといいますと、何(なん)でも、天の高いところにあって、神様が其処(そこ)に集会でもしているのであろうというふうに思っていた国学者もあったし、また現にそういうふうに解釈している国学者もあるのですが、実は「高天原」というのは宇宙全体のことを「高天原」というのであります。

ちなみに、岩波書店版の『古事記』にも「高天原」に「天上界」と注釈を入れています。

岩波版の『古事記』は、宗教的な観点から見ると、不適切な読みや注釈が多く、歴史学界でもその内容が正しいかは議論があるので、皆様は岩波版の解説を迂闊には信じず、雅春先生の解説をよく読むようにしてください。

 宇宙全体といいましても、その宇宙は、我々の見ている現象宇宙ではないのでありまして、実相宇宙であります。

高天原とは、実相のこの世界そのものである、ということなのです。


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2016年9月 6日 (火)

『古事記と現代の預言』(谷口雅春先生)を読む(1)


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「日本国実相顕現の御教え」を考える上で、大聖師・谷口雅春先生の『古事記』解釈は、極めて重要なものであることは、異論を待たないと思います。

しかしながら、いわゆる「生長の家原理主義者」の方々が聖典視している『古事記と日本国の世界的使命』という本は、『生命の実相』神道篇の第一章だけを原理主義者の人たちが抜き出して出版したものであり、その内容については、戦後になって雅春先生が改められた部分もあるのです。

生長の家の公式HPには、次のようには記されています。

谷口雅春先生は戦前の古事記講義に削除や加筆をされ、戦後に発刊された『生命の實相』等の著書の中で、より新しい解釈を発表されています。

『生命の實相』頭注版第十二巻、『限りなく日本を愛す』『古事記と現代の預言』 の著書では、戦前とは違う新たな内容を加えた古事記の解釈が行われています。

(宗教法人生長の家「『生命の實相』神道篇出版に関する本部見解」より)

『古事記と日本国の世界的使命』なる本の問題点については、外部の方が「生長の家原理主義とは:「古事記と日本国の世界的使命」の妄想」という文章を書かれておりますので、関心のある方はそちらを読まれたらいいと思います。外部の方にしては、生長の家に好意的な視点で記されています。

もっとも、この方も『生命の実相』神道篇の「第一章」しか読まれていないようです。何しろ、著作権を握っている原理主義者の皆様が、自分たちに一番都合のいい第一章だけを抜き出しているので、市場には第一章しか流通していないのが現状だからです。私は、『生命の実相』神道篇の本物を入手することができたのですが、第二章以降では当時の軍国主義政府による思想統制を遠回しに批判する部分があるなど、検閲下における大聖師の抵抗と苦悩の跡が見て取れます。

さて、繰り返しますが、『生命の実相』神道篇の内容の一部については、戦後になって雅春先生が一部、訂正をされており、それが、『生命の實相』頭注版第十二巻、『限りなく日本を愛す』『古事記と現代の預言』 の、三冊に反映されているわけであります。

従って、生長の家の正統な『古事記』解釈については、教団の公式HPにも書いてある通り、『生命の實相』頭注版第十二巻、『限りなく日本を愛す』『古事記と現代の預言』 の、三冊を基に行う必要があるのです。それを、『生命の実相』神道篇の「一部、抜き出し」を「聖典」として崇めるなど、以ての外です。


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さて、『生命の實相』頭注版第十二巻については、守旧派権力(特に、いわゆる「司法ファシズム勢力」)による宗教弾圧により発禁処分となっていますが、講師試験でも使用されるので、お持ちでない方でも誌友会等で閲覧する機会は、比較的多いと思います。生長の家の教化部や道場には、『生命の実相』は必ず、全巻おいてありますし、私の母校である龍野高校にも、『生命の実相』は置いております。

『限りなく日本を愛す』は、最近の生長の家ではあまりテキストとしては使用されませんが、世界聖典普及協会のHPから購入可能ですし、生長の家宇治別格本山の聖典頒布所にも置いてあります。

こうした中で、一般の生長の家信徒、特に私のような若い信徒の手には、中々手が届かないのが、『古事記と現代の預言』です。

こういうと、総裁先生や本部講師が『古事記と現代の預言』の話をしていないのが悪い、とか、教団のインターネット講師のブログを見ても『古事記と現代の預言』なる本は出てこないではないか、教団は雅春先生のご著書を否定しているのではないか、とかいう批判が出てきそうですが、それは、大きな誤解です。

今の生長の家では、『古事記と現代の預言』の内容を伝えることに、重点を置いていないだけの事であり、生長の家総裁・谷口雅宣先生も、必要があれば、ご著書やブログで『古事記と現代の預言』からの引用を記したりしています。

ただ、今の教団としては、地球環境問題がここまで深刻になった以上、生長の家の立教以来の悲願である「自然との大調和」の御教えに重点を置かざるを得ない、という現状があるわけです。

私は、これまでにも言ってきましたが、『大日本神国観』という聖経では、天皇陛下よりも先に大自然への感謝の言葉があります。自然との共生なくして、日本国の実相顕現は、決して、ありえないのです。

だから、「現象は時間と空間の制約を通して実相が展開する過程」(『観世音菩薩賛歌』)ですから、今の教団には、『古事記と現代の預言』よりも地球環境問題の解決に力を注ぐという使命があるわけで、この問題で教団を非難するのは、筋違いもいいところでしょう。

では、どうして私が今回のブログを書くことにしたのか、と言えば、『生命の実相』神道篇の内容については、注目を集めているにも拘らず、この『古事記と現代の預言』は、入手が難しいこともあって、ネット上でもこの本についての正確な文章が少ないからです。

今回、私は、住吉大神のお導きがあったのか、大聖師の伝説のご著書『古事記と現代の預言』を入手する機会に恵まれました。

日本国実相顕現の御教えを理解する上での重要な経典であるこの本を読んだ感想を、これから書かせていただきたいと思っております。


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『古事記と現代の預言』は、序文「神話というものについて」から始まります。

そこには、次のように記されています。(註:『古事記と現代の預言』は旧字体で記されており、又、総ルビであるが、ブログにおいてすべての漢字を旧字体で記し、且つ、その発音までをも記すのは困難であるため、文意に支障がない場合は「新字体・ルビなし」で引用されていただくものとする。)

 日本の建国は神話から始まる。建国記念日を二月十一日に制定するときに、神武天皇建国が二月十一日であるということは神話に過ぎないのであるからとて、社会党や進歩的文化人から反論せられたのであるけれども、日本の建国が神話から始まるところに日本の建国がなお一層尊貴なものであることを唯物論者たちには理解できないのであったのだ。

この文章だけを読まれると、どうして紀元節(建国記念の日)が2月11日なのか、今ではご存じない方も多いと思われますので、若干の解説をさせていただきます。

神武天皇(日本の初代天皇)による建国、より正確には「肇国(ちょうこく)」というのですが、これの具体的な年月日は、『古事記』には記されておりません。

一方、『日本書紀』には辛酉の年の「正月朔」即ち「1月1日」に建国された、と書かれてあります。当時は、陰陽暦という暦を使っていましたので、それを今の暦に直すと、紀元前660年の2月11日、ということになります。

しかし、古代においては、「辛酉の年には、革命が起きやすい」という説があり、その、まさに「辛酉」の年の、しかも、「1月1日」に「日本が建国された!」というのですから、如何にも「怪しいぞ!」という風に、歴史学界からは指摘されていたわけです。

まぁ、確かに、丁度ピッタシ、1月1日、一年の始まりに建国された、とは、偶然とは思えない話です。

ただ、それを言い出すと、「イエス・キリストがクリスマスに産まれた」とは、『聖書』のどこにも書かれていないわけです。クリスマスも、ミトラス教という宗教の冬至を祝う祭りが元になっていた、と言われています。

だからといって、「イエス・キリストが本当にクリスマスに産まれたのか、どうかは、極めて怪しい!だから、クリスマスを祝うな!」と言われても、多くの人は納得しないでしょう。

同様に、「神武天皇による建国が本当に今でいう2月11日(当時の暦では1月1日)なのか、どうかは、極めて怪しい!だから、建国記念の日は廃止しろ!」というのも、おかしな話なのです。

そういうことも踏まえると、「日本の建国が神話から始まるところに日本の建国がなお一層尊貴なものであることを唯物論者たちには理解できない」という、雅春先生の言葉の意味も、理解しやすいのではないでしょうか?

「神話」を否定する唯物論的な考えでは、「クリスマスも、建国記念の日も、歴史学的な根拠がないではないか!」ということになってしまいますが、私達は、「神話」を通して、現象の歴史というものを超越した「一層尊貴なもの」を、本能的に理解しようとしているのです。


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ところで、「神話」というものが何なのか、ということについて、生長の家の信徒の方なら何となくはご存知だと思いますが、『古事記と現代の預言』においては、雅春先生による説明も、ちゃんと記されていますので、引用します。

 神話は虚構のものであり、架空の物語であるとして唯物論者は排斥するけれども、一切のものは神話によって始まるのである。”東京タワー”も神話によって始まったし、三十六階の霞が関ビルも神話によって始まったのである。神話は「いまだ現実にあらわれていないものを心の中に想像し、心の中に描かれたるもの」のことである。〝東京タワー"もはじめからあんな現実的造形物が存在したのではないのであって、建築設計家の心の中に、想像力によって描かれたもの即ち神話であったのだ。

そして、物事の根本は「コトバ」(神話)であって、物質ではない、ということを、日本人の古来からの考え方に即して解説されています。

 日本的思惟に従うならば、日本人は「存在」の根元を神より発したものとしてこれを捉える。日本人には、「存在」はコト(事)であり、神はミコトであり、ミコトとは御言(みこと)であり、゛言事不二(ごんじふじ)"であり、みことを漢字にて表現するのに「命」(いのち)なる文字をもってする。存在の根本生命であるものは〝コトバ"であることを直感的に知っていたのが日本民族なのである。

ここで、「言事不二」という言葉が出てきました。恥ずかしながら、私は浅学にも、この「言事不二」という言葉、これまで見たことはありましたが、どういう意味かを知らず、今回、『古事記と現代の預言』を読ませていただくまで、「ごんじふじ」と発音することさえ、知りませんでした。(さらに、私の使用するPCで「ごんじふじ」と打っても「言事不二」とは、出てこないのです!)

と、いうわけで、辞書を引いてい見たのですが、私がいつも使っている二種類の辞書(文庫型?ですが・・・)には、この言葉は載っていませんでした。

そこで、インターネット上で検索してみますと、ヒットしたのは、ほとんどが匿名ブログや匿名掲示板の記事であり、しかも、「言事不二」という言葉の意味について、解説した記事はなかなか見当たりません。どうも、私だけでなく、多くの日本人が、この「言事不二」という言葉の意味を忘れてしまったようなのです。

そうした中見つかった、数少ない「例外」が、四宮正貴先生のブログ記事でした。

四宮先生は、生長の家の活動において、私とは立場が違う方なのですが、四宮先生の文章は立場を超えて勉強になるものが多く、私もよく四宮先生の御文章を読ませていただいております。

その、四宮先生のブログには、こう書かれてありました。

わが国には、「言事不二」といふ言葉がある。「言葉と事実と一致する、言葉と事実は二つではない一つである」「存在は言葉である」「言葉に出したことは実現する」といふ意味である。

豊田國夫氏は、「古代日本人は、言葉に内在する言語精霊が、その霊妙な力によって人の幸不幸をも左右すると考えていた。…彼ら古代人にとって、言葉は、現代のある種の人々が主張するような、単なる媒介、符号物ではなく、もっと人間や事物と切実な関係をもった、生きたものとして感じていたのではなかったか。つまり彼らにとって、言葉は事物と一体をなすものであった」と論じ、柿本人麻呂の歌の表記で、「事」が「言」を意味する歌、「言」が「事」を意味する歌を数多くあげ、混用例が半数であることを指摘した。さらに豊田氏は、「人麻呂の『事表記』の背景的地盤が推測されよう。すなわち混用例半数であるということは、言葉と事柄・事物の融即観において、その密着性が強いということの一つの現象ではなかろうか」(『日本人の言霊思想』)と論じてゐる。

萬象・萬物は言葉=神によって成ってゐる即ち言葉が事物の本質であるといふことを古代日本人は直覚してゐた。言霊の力は、天地をも動かすのであるから、「言霊の幸はふ」とは、言葉を唱へると言葉が持ってゐる霊力が動き出し、言葉通りの結果が表れてくるといふことである。日本民族は、理論・理屈としてではなく、言葉の力を大いさ、言葉が事物の本質であるといふことを生活の実感として知ってゐたのである。

(四宮政治文化研究所「日本人の言霊信仰について」より)

「言葉と事実は二つではない、一つである」――これが、「言事不二」という言葉の意味だということだそうです。

そして、その背後には、

「万象・万物は言葉=神によってなっている」

「言葉が事物の本質である」

という、非常に深い意味が込められているわけです。

今の生長の家が説く、日時計主義の考え方、その根本を、既に古代日本人は「言事不二」という考えの中に込めていたわけですね。


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日野智貴の5つの誓い

一、全ての人間を神の子として祝福礼拝し、縁ある皆様に法愛の精神で接して周囲を和顔愛語讃嘆で満たします。

二、「尊皇愛国・自然共生・生命尊重」を一体のものとして把握し、現代社会の喫緊の課題である地球環境問題に取り組みます。

三、生長の家総裁に中心帰一して人類光明化運動・国際平和信仰運動を通した日本国実相顕現に邁進します。

四、若者・学生・生徒・労働者・胎児・障碍者・薬害被害者の「いのち」と「権利」を断固擁護します。

五、学問的方法によって真実の歴史を明らかにし、我が国の本当の歴史を復興させて次世代へ伝えていきます。


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